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堀田 力の「この道」
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  昨年の10月22日(月)から、 「この道」というタイトルで、幼少の時からの思い出や、法務省時代に経験したこと、福祉の道へ入った理由など、自らの半生を振り返る連載を東京新聞などに執筆してまいりました。
  この3月14日(金)掲載分をもって終了いたしました。後日
、執筆内容をまとめた本を刊行する予定です。

今回は、No.111  3月10日分 〜 No.115  3月14日(最終回)分の記事を掲載いたします。


 front 111 利他の心   back
  3年半のアメリカ生活で、私は自分の人生観を決定的に変えるものを得た。それは、共助のあたたかさを知ったことである。
  人生前半の40年間、私は自分で人生を切り拓(ひら)いていくことしか考えていなかった。わがままな人生であり、検事になってからは、汚職の摘発をするという目的実現をすべてに優先して、生き方を決めていた。
  だから、土、日に限らず、平日の夕刻から家族と過ごす生活は、新鮮な驚きであった。2人の息子は、就学前のかわいいさかりで、父親にまとわりついた。まとまった休暇を取り、テントを中古のキャデラックの屋根に積んで、北はナイアガラから南はフロリダまで、行き当たりばったりに野宿してまわった。道路で脱輪すれば、あっという間に何台もの車が止まって引き上げるのを手伝ってくれたし、キャンプ場でキーを差し込んだままドアをロックした時は、針金やらペンチやら、いろいろな物を持って集まってきた人たちが、キーなしでロックを解除する知恵と労力とを提供してくれた。
  ワシントンDC郊外フォールスチャーチでの生活が、ボランティア活動の動機となったことは、この連載の冒頭部分に書いたが、ご近所の人たちだけでなく、私が職務のために築いた人脈も、あたたかかった。自分の権利を損なわない限りは、できる限り人に役立ちたいという利他の精神を、利己心と同じくらい身に付けていたのである。それは、自分を融合して一体化してしまうような日本の友人関係とは違って、しっかり自分を生かす点でさわやかであり、その一方、相手に役立つことを明確な目的としている点で頼りになる関係であった。
  「このように日常的に助け合いながら、お互いの生活をそれぞれ充実していくやり方があるのだ」。私は、自分の生活の充実はすべて自分の努力にかかっていると信じて疑わなかった人生観が、大きく開けるのを感じた。「新しい(個人主義を前提とした)ふれあい社会」というさわやか福祉財団の旗印は、この時のアメリカ生活で体得したのである。
  1975年8月帰国、私は法務省刑事局参事官となった。早速、アメリカ司法省担当官と約束してきた日米捜査協力体制の拡大に向け、日米犯罪人引き渡し条約の改正作業に入った。アメリカ連邦法に定める全犯罪類型と日本のそれとをいちいち突き合わせ、引き渡す犯罪の類型を選び出していった苦労を、同条約の付表を見るたびに思い出す。

(東京新聞2008年 3月10日夕刊『この道』掲載)

 front 112 ロッキード   back
  1976年2月、ロッキード事件勃発(ぼっぱつ)。
  アメリカ議会で6日、ロッキード社のコーチャン社長は、航空機売り込みのため日本の政府高官らに億単位の金を渡したと証言したのである。それをやるために検事になったような事件が、天から降ってきた!時に、41歳。
  最初の壁は、東京地検特捜部。「いくら世間が騒いでも、情報がないのにどうして捜査ができるのだ。アメリカが極秘資料をくれるわけがないだろ」。苦々しい顔の幹部たちを、法務省の担当参事官として説得した。
  次の壁が三木武夫総理。「資料は私がもらいたい」という。安原美穂刑事局長と2人で、「資料は日本の捜査のため秘密に渡すと司法省が言っています」と言って説得。2月、特捜部検事の発令を得て隠密裡(り)に渡米、司法省との間に捜査協力の約束ができた。
  4月、河上和雄検事が渡米して資料を受領。カクエイタナカの名があったが、金の動きの資料はない。
  5月2日から13日まで渡米。コーチャン社長らの尋問について司法省、最高裁、ロス地裁と打ち合せ。アメリカでは、国外での犯罪は、たとえ自国民がやったとしても、処罰できない。しかし、その不正義がまかり通ることは、がまんできないというのが、彼らの感覚である。だから、日本では考えられない異例の協力体制をとってくれた。
  5月26日渡米。東条伸一郎検事と2人で嘱託尋問を進めた。クラーク、レイノルズ検事が前面に出てロス地裁で尋問手続きに入ったが、ロッキード社側のとびきり有能な弁護士3人がすさまじく抵抗、尋問は違法だという申し立てを連発する。大きく高い壁をいくつも破って、コーチャン社長の尋問にやっと入れたのが、7月6日。時効が8月10日に迫ってくる中、日本では贈賄側の供述を待ちきれず、見切り発車で6月から強制捜査に着手している。これにやっと追いつき、7月27日、ついに田中角栄元首相逮捕。「よくやった」とクラーク検事も涙声であった。
  裁判は翌77年1月に始まった。私は83年1月、田中元首相らに対する論告求刑を行うまでの6年間、裁判に専従した。優秀な弁護士たちから、終盤に隠し玉をぶつけられたが反撃し、田中氏は、一、二審とも有罪、実刑であったが、上告中に亡くなった。
  汚職の摘発は私の人生の夢であったが、摘発した人たちは、人間的魅力に満ちていた。だから、摘発するたび、ほろ苦い思いをした。
 
(東京新聞2008年 3月11日夕刊『この道』掲載)

 front 113 司法改革   back

  ロッキード事件の裁判に専従していた1980年、特捜部副部長に昇格。83年論告求刑を終えると、法務省刑事局総務課長に発令、翌84年法務大臣官房人事課長。私と同期で、同じ時に特捜部副部長となった山口悠介検事は、官房人事課長志望だったのに特捜部長となり、特捜部長になるのが夢であった私は、官房人事課長となった。頂上の一歩手前で夢ははかなく消え去ったのである。
  「それでも、ここまでやらせてくれた検察には、ご恩返ししなければならない」。私の中の理性人間ホッタ君の主張に従って、人事の仕事に励むことにした。当時は検事の数が足りない時代であったが、私は特捜部の検事だけは増員して戦力アップを図った。
  次に、腹を決めて取り組んだのが、この連載の書き出しで触れた司法改革である。
  当時、司法試験の合格者は5百名以下で、日本の法律家は圧倒的に数が少なく、多くの国民が法の保護を受けられずに泣き寝入りしていた。国際社会でも、日本企業の法的利益が守られず、欧米諸国に甚だしく立ち遅れていた。合格者の平均年齢は29歳。いつ受かるか見込みが立たない状況をみて、試験への挑戦をあきらめる前途有為な若者が増えていた。
  私が改革を言い出した時、誰もが無謀だと止めた。「よし、やろう」と言ってくださったのが事務次官の筧栄一さんである。伊藤栄樹検事総長も最高裁事務総局も、最終的には了承をしてくれたので、私は日本弁護士連合会に諮ろうとしたが、当初は会ってもくれない。「検事が足りないから増やしたいんだろう」の大合唱で、加えて人権派の弁護士たちは、「増員すれば一般事件からの収入が減り、するとそれを原資として救うべき人が救えなくなる」と主張した。恥ずかしげもなくそんな主張ができるものだとあきれたが、今でも似たような主張をしている。
  当時としては画期的だったが、私は各界各層の有識者による懇談会を公開で催し、ここで私学や司法書士会、塾などにも意見を述べてもらって、議論の幅を大きく広げ、国民の前に提示した。狭い法曹ギルド内の議論を、司法の利用者である国民各層に開放したのがよかった。弁護士会も、やむをえず参加するようになり、何とか対話ができるようになった。その段階で、私は甲府地検検事正の発令を受けた。88年、私はすでに54歳になっていた。

(東京新聞2008年 3月12日夕刊『この道』掲載)

 front 114 共済金詐欺   back

  甲府地検の検事正になった時、ひそかに立てた目標は、検察庁だけで事件を摘発するということである。独自捜査をやると、検事、副検事や検察事務官の捜査能力が格段に上がる。
  私は、事件の捜査処理の判断を大幅に部下に任せ、志気と実力の向上を図りながら、情報入手を奨励した。すると1988年の秋、伊藤鉄男検事(現東京地検検事正)が「農家の間で、『果実農協が自分らの名前を無断で使って共済金をだまし取っている』といううわさが立っている」という情報を仕入れてきた。
  内偵すると、市会議員が組合長をしている果実農協で、1年前に相当数の無断加入があり、その年に早速、被害申告があって共済金が払われたことがわかった。伊藤検事を主任として特別捜査態勢を取り、農家に当たると、その農協は、組合員を無断加入させ、5百万円ほどの共済金をだまし取っている嫌疑が高まった。額は少ないが、手段が悪質で、しかも市の共済担当職員が加担している。山梨県警本部長に共同捜査の意思を聞くと、「そちらでどうぞ」という。検察事務官たちに下調べさせたうえ、一挙に甲府市役所や農協事務所、組合長宅などの捜索を行い、まず農協と市の担当者を逮捕した。
  革新系の市長が抗議に来たが、私は心得違いを諭した。街宣車が連日、検察庁周辺で不当捜査だと怒鳴りまくったが、これは、組合長である市議の選挙違反(しかも、買収)を摘発したら、おさまった。
  起訴を終えると、甲府市長が謝りにきた。農家の間で、甲府地検は脱税も摘発するといううわさが広まり、多数の農家が市民税を納めに来たと、えびす顔であった。
  89年、全国の検事正の会議では、小地検の独自捜査ぶりを報告した。部下たちの奮闘の様子を語る時は心が躍った。
  その年最高検検事、90年官房長。もう汚職事件を自ら担当して捜査することはないと思うと、むなしかった。それで、冒頭に述べたとおり、司法試験法の改正にこぎつけたのを機に退職を申し出たのである。
  司法改革は基礎を築いただけであるが、共に仕事をしてきた但木敬一(現検事総長)、大泉隆史(現大阪高検検事長)、小津博司(現法務事務次官)、大野恒太郎(現法務省刑事局長)など、抜群の知恵と胆力を兼ね備えた仲間がそろっているから、時代に適合する大改革を成し遂げてくれると信じて疑わなかった。

(東京新聞2008年 3月13日夕刊『この道』掲載)

 front 115 あすなろの夢   back

  「さあ、君はどれくらい成長したのだろう」と私の中の理性人間ホッタ君が、本音人間ツトム君に聞いた。「わからないねぇ。したいことに熱中しているという点では、成長してないね」と、ツトム君が嘆息した。
  「でも被疑者の本心を聞き出すために、相手の気持ちを理解しようと努力したのは、プラスになったでしょ」とホッタ君がなぐさめた。「そう、検事をやってほんとうによかった。悔いはないよ」とツトム君はすぐ乗る。
  ホッタ君はたちまちクールになって「じゃ、君は檜(ひのき)になったと思ってるの」と聞く。
  「え!?」ツトム君は、考え込んだ。
  思い起こせば高校、大学時代、私(分析していえば、私の中のツトム君)は、井上靖の「あすなろ物語」に激しく魅せられていた。
  この物語は、伊豆で育った少年が新聞記者として活躍するまでの姿を、短編6つをつなげて描いたものであるが、その底流に、あすなろ(翌檜)の木についての説話が流れている。「檜に似たあすなろは、明日は檜になろうと思い続けながら、ついに檜になれない」というのである。
  そう思いながら、挑戦し、挫折し、また挑戦する主人公のように、私も挑戦するしかないと自分に言い聞かせ続けてきた。「たとえ檜になれなくてもいい。それでも檜を目指して挑戦するのが、生きるということだ」。私は自分の能力に自信が持てず、意欲がなえそうになったり、生きる意味を自分でみつけることができず、心が空虚に沈んだときなどに、あすなろを思って何とか自分を励ましてきた。
  検事になってからは特捜検事を目指して夢中で生きてきたから、いつしかあすなろの思いは遠のいていったが、若かったころのあの思いは、鮮明に呼び起こすことができる。
  「ぼくは結局、檜にはなれなかった」とツトム君は悲しそうに断定した。「特捜部長になれなかったからね」とホッタ君。
  「そう。でも特捜部長になれていても、汚職の根っこまで断ち切ることはできなかっただろうからね。しょせん檜は無理なんだろうね」とツトム君が言った。
  そして今、私は「新しいふれあい社会」に挑戦を続けている。この夢も、生きているうちに達成するのは無理だろう。だから、やっぱり私は、あすなろ(翌檜)で終わるだろう。
  「でも、それでいいよ」とツトム君が言った。「最後まで挑戦し続ければね」とホッタ君が条件を付けた。

(東京新聞2008年 3月14日夕刊『この道』掲載)