昔に書いた提言内容を自ら振り返ります。
更新日:2005年11月9日
人の気持ち
1995年9月号『さぁ、言おう』巻頭言より
「ふれあいの輪」
見知らぬ土地へ行って住むということは、そんなに抵抗が多いことなのだろうか。
「行っても職があるって保証があれば、どこで住んだっていいんだけどな」と、神戸の避難所でビールを御馳走になりながら話したおじさんは言っていた。だけど、行きたくない気持ちがありあり。今がしのげれば、あまり冒険をしたくないふうに思えた。
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全国に新しいふれあい社会をつくりというのが、私たち財団の終局の目標である。そういう運動をしている最中に、阪神・淡路大震災が起こり、地域社会が壊れてしまった。しかし、家を失った人々の多くがその地域から離れず、仮の住まいに必死にかじりついている。
すべてに不便で、きびしい生活だから、心がすさみ不安にかられる。その解消に少しでもお役に立ちたいと考え、私はふれあいのシステムづくりに取り組んできた。しかし、事ははかばかしくは進まないのである。
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私たちが最初に取り組んだのは、高齢者の一時受け入れである。
ついの住み家が確保されるまで、2年間程度以内の期間、高齢者を全国の連携グループで預かってもらうというプランである。これだと、平素在宅サービスをしている温かい心のグループが、全員で高齢者のお世話をするわけだから、見知らぬ土地に行く心細さは、ずいぶんと軽減されるだろう。それに、見通しが立てば、もとの地域に戻れるわけだから、先に光りもある。
そう考えて全国の連携団体に呼びかけたら、いくつもの団体が、それぞれの地域活動だけでも大変なのにあちこちと交渉して暮らす家をみつけ、みんなで世話をする体制をつくってくれた。
一方、私たちは、受け入れ先の具体的な状況を詳しく書いたビラを何千枚も配り、保健婦さんや地元のボランティアさんたちが募集活動をしてくださり、また、財団の複数の職員を何回も派遣して、ボランティア活動のかたわら、広報につとめた。
ところが、みごとに応募がない。
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緊急時には、家族が寄りそって暮らしていたいという人々が圧倒的であった。いまもそういう気持ちの人が少なくないが、同居生活で家族や親類間にきしみも出はじめている。
それより大きいのは、先の見通しが立たないという決定的な不安から、土地を離れられないということである。
事実、仮設住宅は、高齢者が現にいる家族に優先的に割り当てられた。それではいかに生活が厳しかろうと、高齢者は現地を離れられない。しかも、仮設暮らしの方々のための本格的賃貸住宅の建設は、まだ計画段階であり、どういう人がどういう条件で入れるかについては、行政はまだ何も示していない。
だから、人々は仮設住宅に息をひそめて、光の来るのを待っている状態である。そういう状態だから、せっかく体制を整えてくださった団体の方々にはまことに申し訳ないが、地元を離れる気持ちになる人が出る気配は、まだ、見えない。
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私たちも支援している東灘・地域助け合いネットワークの中村順子さんのアイデアで、“茶話やかテント”が随時開かれてふれあいの場が生まれつつあり、これが県が設置する“ふれあいセンター”に広がろうとしている。そういった場所でのふれあいを通じて、いろいろな支え合いの活動の輪が広がるであろう。
私たちも今は、地元の活動支援に重点を移しつつ、希望をもって多様な支援活動を展開していきたいと考えている。
「2005年10月」
阪神・淡路大震災(95年1月)の被害に遭った高齢者の一時預かりプログラムは、私がボランティアの世界に飛び込んでからの15年間で最大の失敗であった。馴染んだ土地への執着がどれほど強いかを思い知らされた。私のように、あちこち転勤してきて、それぞれの地に馴染んだ人間には、思い及ばない強さである。
アメリカで知り合った多くの人たちも、気軽に知らない土地へと移り住んでいたから、見知らぬ人に冷たい日本での現象かと思っていたら、この間のニューオルリンズの水害で自宅に残った人が、避難を求める行政官に対し、「ここはおれの家だ。他にどこにもおれの行くところはない。だから絶対に行かない」と叫んでいた。
人の気持ちは、難しい。あれから10年経ったが、まだまだわからないことが多い。
ただ、あの大震災以降、ボランティアをする人々は確実に増え、特に災害の時は、どっと人が駆けつけるようになった。新潟県中越地震の時など、ボランティアも援助物資も余って、地元のコーディネーターが苦労していた。
大きなところで、日本人は、間違いなく人に優しくなってきている。
そして、もっともっと優しくなれると信じている。