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定期連載 ビジネス戦記
更新日:2005年9月16日
推し進めた司法試験改革 弁護士会の猛反発に困惑
念願を果たし辞める決意

 法務省の人事課長だったころ、司法試験制度の改革に取り組んだ。この制度は長い年月の間に、いろいろな弊害を生んでいた。まず合格者の平均年齢が二十八歳で、平均六回も受験しないと受からない。修習をすませると三十歳。社会経験を積み、人間を磨かねばならない時期を、机にかじりついて過ごすことになる。しかも、二万数千人の出願者に対して合格者はわずか約五百人。三十歳を過ぎてから司法試験を断念して、企業に入ろうとすると、大きなハンディを負うことになる。

省内に「無理」の見方

 弊害はそうした微視的なものにとどまらない。例えば、暴力団が民事事件に介入するのを許している背景に、法律家不足がある。法律問題に、法律家ではなく暴力団の示談屋が登場するなど、およそ法治国家といえない事態のなかで国民の人権が侵されている。また、欧米に比べて国際間の問題を扱える法律家が極端に少なく、企業にも国益にもマイナスになっている。
 法務省は一九六二年から約四年間、司法試験制度の改正作業を続け、日本弁護士連合会や各大学と話し合って改正案を国会に提出する寸前までいった。しかし、土壇場で弁護士会などの強硬な反対に遭って断念した。省内では「改革などできっこない」という空気が強かった。
 しかし、日本の立ち遅れは覆いようもなく、荷が重いのを承知で制度改革に取り組む覚悟を決めた。八六年秋、筧栄一法務事務次官に申し出ると「そう言ってくれるのを、待っていた」との返事だった。
 「改革はやってもらいたいが、最終的にはうまくいかないかもしれない。そのときのことも考えておいて下さい」と言われたのは伊藤栄樹検事総長だった。先の先を読む伊藤さんは、日弁連などの反対で法改正は無理だとみて、「制度運用で若い受験者の点数にゲタをはかせられれば上々だ」と助言され、公の場でもその考えを提唱された。失敗した時の助け船を用意してくださったのだと思う。

「ギルド社会」のエゴ

 八七年一月、小津博司検事を中心とするチームを作り、女性の田島優子検事にも入ってもらった。そして改革着手を発表すると、弁護士会は「検事不足の解消が狙いだろうが、検事になり手がないのは検察庁の体質に問題があるからだ」と猛反発、取りつくしまがなかった。
 しかし、そうしたことは事前に予想できたことだ。法曹界だけで議論しても、「ギルド社会」のエゴに巻き込まれるだけ。国民の立場から広く検討する必要があると考えていたので、各界の有識者からなる法曹基本問題懇談会を作り、四月から議論を重ねていただいた。議論の内容はすべて公表した。
 やっと日弁連への説明が実現したのは七月。執行部に再三頼み「突然押しかけた」という体裁をとることでOKが出たが、「増員反対」の激しい声が各県の弁護士会長から続出し、まるで糾弾集会のようだった。
 「緊急に合格者の数を増やすべきだ」と懇談会が答申したのが八八年月。四月には「増員するとともに、受験回数を大学卒業後三回までに制限する」との人事課長私案を公表。私は甲府地検検事正に転出した。
 再び改革に携わるのは、官房長になった九〇年六月である。すでに裁判所、日弁連、法務省は法案作りを念頭に置いて三者協議会のテーブルについていたが、弁護士の間ではまだ反対派が多数だった。則定衛・法務省司法法制調査部長や但木敬一・同課長らが受験回数や増員数などについて妥協案をさぐっていたが、日弁連は国民的見地から、ある程度の増員は認める方向に変化していた。

ガラス細工の改革案

 行動派の日弁連会長、中坊公平さんが全国の県弁護士会長らに電話をかけまくってまとめた改革案は「合格者をこれまでの五百人から七百人に段階的に増員するが、若返りが見られないときは、九六年以降、合格者の三割程度を初回受験から三年以内の受験者から選ぶ」という内容。最高裁判所も了承して、やっと司法試験法改正案がまとまった。
 「生ぬるい」との批判もあったが、改革に重要な役割を果たされた東大名誉教授、三ヶ月章さんは「少しでも触ると(法曹三者の合意が)崩れてしまうガラス細工のような改正案」と評価して下さった。九一年四月、原案どおり改正案が国会で成立し、司法改革の小さな一歩を踏み出すことができた。「これで検事を辞めても許してもらえる」と思うと、感無量だった。(談)

(朝日新聞掲載/1992年4月25日)
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