私の中学、高校時代、というと、もう半世紀以上前になるのだが、そのころでも「彼」「彼女」というのがあった。いや、ディックミネの歌に、「私の彼女は、一三、七つ」というのがあったから、そういう言い方は、戦前からあったのだろう。その法的地位を定義すれば、「相互に男女として愛し合い、他の男または女を愛さない契約を締結した人」ということになろうか。ただし、その契約違反は損害賠償の責任までは生じさせない、いわば自然法的な関係である。
最近は、「カレシ」「カノジョ」という言い方になる。カタカナで書いたのは、発音の仕方が独特だからである。
私のわずかなデータに基づいてその法的地位を定義すれば、「カレシ」は「性的交渉権と、デートする権利を独占する地位」のようである。「一応カレシ」というのもあって、その法的地位は、「性的交渉権は独占するが、デート権は独占できない地位」だと、一応定義できる。このほかに、「元カレ」というのもあって、これは「性的交渉権は消滅したが、デートについてはなお優先権を認められた地位」というのが多いようである。
私たちの青春時代の「彼」と決定的に違うのは、性的交渉権の有無である。私たちの時代は、その権利は結婚式を終えるまで発生しなかった。そのうち、それは婚約すれば発生するようになり、やがて、結婚とか婚約とは無関係に両当事者の合意のみによって発生することとなった。
結婚と無関係となると、乱交状態になるのではないかと心配されていたが、感心するのは、「カレシ」「カノジョ」という独占的地位が社会的に生まれて、乱交状態にはなっていないことである。だから「ひそかに愛する彼には『一応彼女』がいるが、彼のデートの申し込みに応じてよいか」という人生相談が来たりする。
結婚制度でガチガチに縛りつけなくても、人間は、かなり天然自然に、一夫一妻関係を志向する性質を持つ生物のように思われる。多くの哺乳類(ほにゅうるい)と異なり、むしろ多くの鳥類に似たオス・メス関係をつくる動物といえよう。
ところで、人間以外の生物は、性的に成熟すると直ちに性的関係に入り、子を産むが、人間の場合は結婚制度を考え出し、結婚以前の性的交渉を禁じる社会規範をつくり、勝手なことに女性に対してだけこれを押し付けてきた。
やっとこの不自然な規範が破られ、性的成熟と結婚との間の十年以上に及ぶ長い期間を埋める社会的な制度(ないしは風習)が、自然に生まれた。それが「カレシ」「カノジヨ」だといえよう。
北欧諸国はかなり前からこのような社会的制度が発展し、事実婚が法律婚を上回るようになっている。日本もおいおいその方向に進むのであろうが、社会にとって大切なことは、子づくりと子育てである。
北欧諸国のように、子育てを社会全体で引き受ける仕組みを整備していけば、案外、少子問題が解消する方向に向かうかも知れない。
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