政治・経済・社会
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定期連載 辛口時評
更新日:2005年9月16日
放任は愛情ではない

 昔の非行少年は、つっぱりが多かった。強烈な自己主張と怒りをみなぎらせて、学歴や社会的地位による階層社会に反発し、つっぱっていた。
 このごろの非行少年は、無気力で虚無的なように見受けられる。体を張って素手で取っ組み合ういさぎよさがなく、刃物を使い、あるいは集団で襲うなど、陰湿な方法で殺傷に及ぶ。
 彼らの特徴は、自己主張がないことである。主張すべき自己がなく、自分のことも人のことも社会のことも、別にどうなってもよい。生きていて楽しいという実感がなく、自分を好きだとも思っていないから、人の生命や感情を大切だと思う実感が持てない。
 だから、その時の自分の気分のままに殺傷に及んだり、そこまでいかなくても、言葉や態度で人を傷つけて、何とも感じないのである。
 どうしてそうなってしまったかというと、幼いころから、親や周りの人から自分の存在価値を認められていないからである。
 「あなたがいるから、無条件に幸せ」という親の意思表示を受けたこともなく、「あなたはこんなことができるんだね、素晴らしいよ」とほめてもらったこともない。「こうしなさい、これはしてはいけない」という管理だけ。従わないとしかられる。
 そして「あれがほしい」といえば買ってくれ、「もっとテレビを見ていたい」といえば、夜遅くてもオーケー。そういうわがままを許して放任するのは、愛情ではなく、面倒なかかわりを避ける、冷たい仕打ちである。
 子どもが非行に走ってから「うちは子どもの個性を認めて自由にやらせてきたのに」という親がいるが、それは「愛情をもって子どもとまともに向き合うことを避けてきた」といっているのと同じである。
 子どもは、甘やかす親を本能的に見抜き、好き勝手な振る舞いをしながら、親が自分に冷たい、自己本位の人間であることを肌で感じている。物心のつき始めた幼い子ですらそうであることは、よく観察していると、わかる。非行少年を育てているようなものである。
 人が自分の存在価値を肯定することを、自己肯定(私は、自己存在の肯定とか自己存在の確認といっている)といい、そういう感情は自尊感情と呼ばれる。それがなければ、人は努力することもせず、親を含む他者を大切にすることもせず、ましてや社会に貢献することはない。
 当たり前のことだと思うのであるが、教師や教育学者の中には、「自尊感情や自己肯定感などを育てると、社会性のないわがままな子になりませんか」とまじめに言われる方がいるので、びっくりする。それがないから、社会性のない、わがままな子になっているのである。
 自分の存在を大切だと思うことは、自分を取り巻く人の存在も大切だと感じることである。自分が楽しいと、自然に人への愛情がわく。自分の欲望に目のくらんだ人は、人の気持ちには気付かない。子どもにも大人にも共通する現象だと思うが、いかがであろう。

(神奈川新聞掲載/2005年3月21日)
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