ここ10年ほどの間に、仕事仲間との酒のつきあいの様子はかなり変わってきたように思う。それでもアメリカなどと比べると、仕事の仲間同士で夜遅くまで外で飲んでいるグループが結構多い。居酒屋、料亭、バー・・・どれをとっても、ウィークデーの客の大半はそういうグループで、家族、友人仲間や地域、趣味の仲間の方がまだ少数派のように見受けられる。
もちろん、仕事仲間であっても、人間的に惹(ひ)かれあい、友人として一緒に飲むのはおおいに結構である。しかし、自分の方は飲みたくもなく、付き合いたくもないのに、上司や先輩などに引っ張りこまれて、酔っ払った上司に心にもないヨイショをしているのは、見ている方も疲れる。当然、本人の精神的疲労は相当なものであろう。
上司、先輩の方も、それとなく仕事にかこつける風で誘う。が、それはまず例外なく口実に過ぎず、自分が飲んだり食べたりほめられたりしたいだけだ。さらに本音を暴くなら、家に帰りたくないからである。
要するに「妻に対する夫」としても、「子に対する親」としても(親と同居している場合は「親に対する子」としても)、その役割を果たしていない。ましてや地域と何のつながりもないから、妻も子どもも(同居の親も)すっかり見限り、月給以外の何も期待せず、その存在自体が家族に有害な物体として接する(つまり、なるべく接しない)ようになっている。だから、居場所がない。はなはだ居心地の悪い自宅へ帰りたくないのである。
そして、そういう上司、先輩に引きずられて付き合っているうちに、自分の居場所もなくなっている。居酒屋で深刻そうな顔をしてその場にいない仕事仲間のあらさがしをしたり、バーで心はそこにないホステスを下手なせりふでほめまくったりしているようなサラリーマンたちは、この世に居場所を失った“根無し草”と思ってよい。
私も長らくそういう仕事人間だったからよくわかっていて、つい自虐的に口が悪くなってしまう。しかし、私がいろいろな職場でのさまざまな仕事仲間との酒のつきあいを総括して断言できることは、そういう酒のつきあいをまったくしなくても、仕事は何ら変わりなくきちんとできるということである。
チームワークを組む仲間であろうと、上司であろうと、こちらの仕事に決定的影響力を持つ仕事の相手方であろうと、こちらが仕事にしっかり取り組み、先を読み、相手に説明できる力を持っていれば、酒の上のつきあいがまったくなくても、正しく評価し、やるべきことはやってくれる。
逆にこちらの取り組み方が甘く、その場限りのいい加減なことを言っていたのでは、どんなに酒のつきあいが深くても、仕事の方はうまくいかない。これは当然だ。相手にとって、うまく仕事が運ぶことが第一で、酒の相手などどこにでも転がっているからである。その程度のことに無理をしてつきあい、家族の邪魔物に堕ちるのは、まことに損な生き方であろう。
私は酒が大好きで、気の合う仲間や学ぶことの多い仲間などと飲み、身体も心もあたたかく元気になるのは、人生でもっとも素晴しいことのひとつだと思っている。そういう点で酒の効用はまことに大きい。
それだけに、不快な酒のマイナス作用も大きく、身体をこわし、人生をこわす源(もと)になる。
酒は楽しく飲みましょう、ご同輩! |