公務員の力の淵源は人事(権限)と予算であり、そのプライドを支えるのは能力である。
文部科学省の天下りあっせんが世間を騒がせているが、公務員サイドに立てば「公務員は難関を突破した優れた能力を持つ人材の宝庫で、中でも幹部に昇った人は優秀なのだから、退職したらその能力を社会に生かすための職場をあっせんするのは基本的には善いことだ」という考え方があるように思う。
しかし、もちろん問題は人材の活用にあるのではなく、役所が見返りとしてあっせん先のために不当な行政を行うおそれが生じることにある。
それでもあっせん先で、その公務員が能力を存分に発揮し、業務に役立っていれば情状酌量の余地があるが、多くは役所から情報を入手し、役所と交渉する時のためだけに置かれているように見受けられる。私の数多い友人知己の中には新しい職場のラインの管理職として大いに力を発揮した人もいるが、数からすれば少数派である。
となると、人材活用の観点からすれば善行だという考え方は成り立たない。ただ、社会的に見て活用すべき人材は役所と無関係な人材あっせん機関で適切なあっせんをすれば足るということになる。
■残るお上意識
それにしても、難しい試験を通り、役所での激しい競争を勝ち抜いてきた人材が、あっせん先の民間組織でなぜあまり役に立たないのだろうか。
その主たる原因は、役所の人事にあるように思う。役所の人事は、特殊な任務を担う役所を別にすれば、一般にゼネラリスト(総合的管理職)養成を目的とする出世コースに沿って行われる。つまり、概ね2年くらいで転任させ、なるべく種類の異なる職種を数多く経験させるというコースである。時には別系統の役所や民間組織に出向させるという人事も行われる。
このようにして、深くはないがいろんな部門の仕事を知っているゼネラリストの幹部になるのである。しかも、経験した役所の部門は、権力行政か給付行政を行っているところばかりで、その性質上、上から目線になりがちである。そういう仕事を継続して経験していたのでは、民間の仕事になじみにくい。その力を生かせるのは、元の役所の仕事と同種の分野の調査研究を行う非営利法人などに限られてしまうのである。
それでは、公務部門で働いた優秀な人材の多くは退職後社会で活用できないのであろうか。
それは本人の心掛け次第であって、在職中から無意識に生まれる上から目線を意識して拭い去る努力をしていれば、その適応範囲はぐんと広がるであろう。
原則論をいえば、権力行政であろうと何であろうと、公務員は国民の公僕なのだから、あるべき姿に徹していれば、上から目線にはならない筈で、日本社会はまだお上意識が残っていることが問題である。
■協力引き出す
しかし、日本の行政自体がお上意識など持っていられないものに変わろうとしている。その変化をもたらすのは、近年常態化した財政の逼迫である。これまで公務員の功績は、どれだけ予算を獲得したかであったが、これからは、いかに予算を使わずに行政目的を達するかに変わっていく。予算を使わずに行政目的を達するためには、国民の無償の協力を引き出すしかない。
たとえば介護の分野で、要支援者などへの生活支援サービスの給付を国民相互の助け合いに代えるという動きはその典型であるが、早くもさまざまな福祉の分野でこれを追う政策が採用され始めている。世界の先進諸国も、同じ変化を見せ始めた。
こうなると予算を多く取る公務員は無能な公務員で、国民の協力を多く獲得する公務員が有能だということになる。
国民の協力を多く獲得するには、お上意識などを身に付けてはダメであって、そのためには、同じ職場で時間をかけて同じ相手(国民)と協同作業を行い、心を通じ合う必要がある。人事も自ずからゼネラリストの養成でなく、国民の信頼を獲得する人の育成が第一の目的というように変わっていかねばならない。そうなれば自然に、退職しても民間で重用される公務員が増えていくことになるだろう。早くそうなってほしいと願っている。
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