十年前に起きた阪神・淡路大震災の時には、何度も現地を訪れた。支援活動をするなかで、家が倒壊した高齢者たちが避難所などに身を寄せているということが分かった。
寒い季節なのに、トイレも少なく、生活のいろいろな面で我慢を強いられているようだった。その様子はとても悲惨で、なんとか手助けできないものかと考えた。
そこで、住める家を提供するのが一番だと思った。さわやか福祉財団と一緒に活動している全国の非営利組織(NPO)の仲間に呼びかけた。被災した高齢者たちが二年ぐらいは住めるような部屋を確保し、食事などの日常生活を我々がボランティア活動で支援していこうという考えだ。
皆、賛同してくれてすぐに家探しに乗り出してくれた。自治体に協力を求めたりしながら、仙台、名古屋、岐阜などの各地域から、「いけそうだ」「もう借りましたよ」という報告が次々入った。
「神戸に行くスタッフには、こうした家の情報を入れたビラを配ってもらった。被災者から希望する地域があれば、そこで家を確保しようという計画もあった。二、三回はビラをまき、全部で五千枚以上にはなったと思う。地元の神戸市も、ビラの配布に同行するなど応援してくれた。
ところが、申し込みが全くこない。ビラを手渡して説明すると、高齢者たちは「すてきなお話ですね。考えておきましょう」と、にこやかに応じてくれる。それなのに、一件も希望者が出てこない。三カ月ほどPR活動を続けたが、だめだった。
これには驚いた。結果的には各地の協力者に迷惑をかけてしまい、謝らねばならない。せっかく家を探してもらったのに、残念なことだった。
なぜ応募者が一人もいないのか。僕の完全な読み違えだった。神戸市当局も「不思議ですねぇ」と首をかしげるばかり。当時、行政の復興住宅ができてきて、その入居者は「神戸にいる人を優先させる」という噂(うわさ)が流れたのは確かだった。神戸を離れると入居しにくくなると思われたのかもしれない。
だがそれだけでは説明できない。大きな理由は、「郷里の神戸を離れたくない」という強い気持ちがあることが分かった。新しい地域に移ると、自分の居場所がなくなるという不安が高まる。知らないところへ行くのは怖い。
長崎県の雲仙・普賢岳など各地の災害の被災者の動きを見ると、やはり同じだ。どんなに住みづらくなっても地元に残る人は多い。
今でも郷里の親がなかなか遠くの子どもの家に来たがらない。以前から住んでいる人たちが、新住民になかなか心を開かないことを知っているからだ。首都圏近郊でも同じだ。
それに我々のようなボランティアを信頼してもらえなかったことも、理由のひとつかもしれない。「知らない人から援助を受けたくない」という気持ちもあったのだろう。なかなか「助けて」と言いづらい。回りがいつも競争相手という近代社会のひずみの表れとも思えてくる。(談)
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