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提言 教育
更新日:2005年9月16日
子どもの育つ力

 子どもたちは、今、幸せなのだろうか。
 日本の未来を考える時、いちばん気になるのは、子どもたちの元気のなさである。
 私は、いろいろな年代層の人たちに講演をするが、青少年層の反応がほかの世代ときわ立って違う。無反応なのである。なぜ非行に走るかという話、障害児に対する差別の話、自分の好きな科目を見つける話、なぜ生きるかという話、性教育の話など、年齢に合わせて話すのであるが、顔を上げてくい入るように聞いているのは、何十人かに一人で、あとは頭をたれたままである。
 それでも数年前に比べると最近は、静かにはなったが、その分、無関心さがきわ立って、かえって気味が悪い気がする。ほかのどの世代の人たちと比べても、格段に生気がないのである。

* * *

 二年ほど前、政府がスポンサーになっているボランティアのテレビ広報に出た時、世界の国々の子どもたちと一緒になった。小学校低学年だから、元気はつらつで、静かに待つことができない。いたずらを仕掛けたり、抱きついたり、テレビマンも持て余していたが、その中に三人、目立つほど静かで動かない子がいた。三人とも日本の子どもであった。そのうちの一人はそっと私の隣に来て、腕のツボに指圧をしてくれた。「上手だねぇ。どうして覚えたの?」と聞くと、「いつもお母さんにしているの」と答えた。男の子である。鼻すじのすっきりした白人の女の子が別の日本の男の子にちょっかいを出すと、その子は、冷たい声で一言「ガイジン」と言った。女の子がとても悲しそうな表情をしたのが印象に残った。日本の子どもたちだけ、どうしてこんなに暗い感じなのだろう、と気になった。

* * *

 今の子どもたちは、昔の東北の農村の子のように、花街に売られたりデッチ奉公に出されたりすることはないし、ご飯はおなかいっぱい食べられる。手にひび割れ、あかぎれをつくって掃除、洗濯、炊事の手伝いをさせられることもないし、行きたい学校を諦(あきら)めさせられることもまずない。物質的な豊かさの点では、天と地の開きがある。
 なのに、どうして元気がないのだろうか。
 一言で言えば、自立する人として認められていないのではなかろうか。
 そんなことを言うと、一人っ子、二人っ子に心血を注いで育てている親から大反発を受けそうであるが、どんなに頑張っても、一人や二人でやれることには限度がある。
 昔は、「ねえや」がいた。「十五でねえやは嫁に行き」のねえやである。私のおやじは、しがない英語教師であったが、それでも妹が生まれた時はねえやが来て、いつも妹をおぶってねんねこばんてんでくるみ、雪の中でも買い物に行った。幼い子は、いつも誰かに抱かれていたのである。そして兄弟姉妹が何人もいて、子どもの成長に合わせ世話をし、遊び、きたえていた。余計な世話はしない。泣かされて、泣かした子を親が叱ると、あとでやられる。そのようにして、親に甘えるなということを教えられる。その中で、自立を学び、人に役立つ喜びを知って自信をつけ、わがままを抑えて人とうまくやっていく術(すべ)を身につける。
 主張をし、自分で頑張らないと誰もかまってくれないから、小学生のころから自分は将来何になりたいかを考え、それになるためには何をどう頑張ればいいかを世間から学んで、自分の人生を拓(ひら)いていくのである。それが農業であろうと漁業であろうと小さな商店であろうと、胸を張っている。勉強ができて大学をめざすという仲間がいれば、「すごいなぁ、しっかり頑張れよ、お前は特別な頭を親からもらってるんだから」と励ましこそすれ、その子より成績が悪いからと卑屈になったりはしない。「オレには親からもらった、力の強いこの腕がある」と自分に自信を持っている。
 確かにすごく貧しかったが、わが身を売られるほどに貧しい家の子を別とすれば、子どもたちは、それぞれに人として認められ、子どもながらに役割を果たし、自分で自分の人生をつくり出す生気に満ちていたように思う。

* * *

 私たちは、子どもの育つ力を認めるところから出直すべきではなかろうか。

(2004年1月18日)
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