体が床にたたきつけられ、口の中に苦い血が広がる。中学の卒業式後、修学旅行の帰りの船内で体育教師が私の顔面を殴り飛ばした。周りで生徒たちがこわばっていた。
終戦まもない京都市内の公立中。気に食わないことがあると殴る体育教師らに、生徒は萎縮(いしゅく)していた。学級新聞を作る、ストを行う……。私は、団結して対抗したクラスの級長だった。保健の授業で質問した友人が、態度が悪いと言いがかりを付けられ、殴られて机ごと倒れた。「謝れ」。思わず私が前へ出ると、同級生も次々「謝れ」と声を上げた。このままにされるなら事実を学級新聞に書き、PTAや新聞社にも伝えると校長に直談判した。理不尽な体罰は減っていった。
4歳で生母を亡くした。そのぬくもりは生涯懐かしい。父の後妻は温かい人だったが、しつけは厳しかった。
小学校時代からずっと級長だったが、小学4年の時、一度だけ級友全員に無視された。先生の指示で、軍隊式の階級を級友につける私に、思い上がりがあった。放課後、「2等兵」の級友を訪ね、階級をなくそうと提案した。翌日、元に戻ることができた。
戦時中に威張っていた大人ほど、変わり身は早かった。その無責任さに、何でも一度は疑ってみるようになった。
戦後の中学では、校則を自分たちで作ろうと呼びかけた。何でも話せたのは生物の男の先生。人間味丸出しで、その先生に誘われて入った生物部で、女子生徒に一目惚(ぼ)れした。「くるしく にがく かなしける/心の炎消し難し」。日記をそんな言葉で埋めた。心に秘めたつもりが、学校のうわさとなった。
「だいじょうぶ?」。殴られ、血をのみ込んで船室に戻った私に彼女が近づいた。悔しかった。力のあるものが力を歪(ゆが)め、人を傷つけるのを許すまい、と思った。
いろんな不合理から、傷つけられたり歪められたり、それをただしたりする人生がある。それを書く記者や小説家になりたいと思った。その後書く方は忘れ、不合理そのものと向き合う仕事に就くことになった。
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