刺激的なタイトルにしたのは、読んでほしいからである。
もちろん、意味のない制度が何十年も続く筈はない。旭日中綬章に地方議会人がずらりと並んでいるのは、結構なことである。
しかし、市民、住民の視点から見ると、地方議会も、他のさまざまな機関や組織と同様、制度疲労を起こしている。その最たるものは、利権獲得に議会の権限が使われることである。
たとえば佐賀県では、新しい知事のもと、予算組み立ての段階からインターネットで公開することにしたと聞く。県の部局が要求し、それが削られたり、認められなかったり、認められたりする過程が、県民に公開される。
「それでは県会議員の働き場がなくなったでしょう」と聞くと、県の職員は、ちょっと照れながら、しかし、はずんだ声で、
「そうなんですよ」と答えた。
彼が照れたのは、予算編成の過程でこれまで働いてきた裏の獲得合戦の世界について、それを認めることに恥ずかしさを感じたためであろう。しかし、それ以上に彼が明るかったのは、そういう県民に見えない闇の取引過程が、今回の県民、市民へのプロセス公開によってみごとに排除され、県民に対して胸の張れる、そして、彼自身も公務員(パブリック・サーバント)としていきがいを感じることのできる予算案が編成できたからであろう。
ここでは、議員たちは、古い政治勢力の役割を果たしており、これを打破するのが若い知事という構図になっている。これでは、地方議会人の栄光が泥にまみれてしまう。むしろ、なかなか権限を離そうとせず、住民の方を向かない地方自治体の行政職員を叱咤激励し、住民の気持ちに沿う地方行政にすべくリードしていくのが、地方議会人の心意気というものではなかろうか。
* * *
次に、表の舞台を見てみよう。
たとえば、地方自治体にサービスの負担と給付を決める権限が委ねられた、介護保険制度の運用についてである。
これは、権限を地方に譲るという点で画期的な制度であるが、その運用の実態を見ると、住民の意見をよりよく吸収している地方自治体ほど、住民の負担が高くなっているという傾向が見受けられる。
残念ながら旧来の選挙構造で選ばれてきた地方議員の多くは、一般住民の生活に根ざした欲求を汲み上げるのは苦手である。家庭介護に疲れ果てた息子の嫁たちの溜息や苦悩を感じ取るセンサーは、備えていない。だから、介護保険料を上げるという話には、反対しておけば票はつながると思い込んでいる。
それは、なんでも行政にお任せだった時代の適応方法である。介護を経験した人たちの多くは、建て前は別として、本音では、身体的な介護はしっかり介護保険のサービスでやってほしいと望んでいる。はっきり口に出して、「何とか施設に入れてほしい」と言う人も増えてきている。一方で介護の経験のない住民は、負担が増えることに反発する。そうなると、適正な負担と給付を決めるには、両方の立場の住民たちでじっくり話し合ってもらうほかない。そのためには、夜間や休日など、住民の参加しやすい時間帯に住民の話し合いの機会を多数つくるか、あるいは住民のいろいろな本音を代表する住民の会議を何百人単位で組織し、徹底的に議論してもらうことが必要になる。そして、そういう過程をたどると、負担に反発した住民たちも、自分たちの将来を考えるとある程度サービスをそろえなきゃならないなと納得して、負担が高くなることに同意するようになる。このようにして、介護保険の運用は、住民に支持されるものになっていく。
問題は、住民の深刻な生活問題がかかっている介護保険の負担と給付の決定に、地方議員が役割を果たしていないことにある。
そういうことでは、地方議会の意味がないではないかとの極端な声が出てきても、まともに反論しにくいことにならないだろうか。
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これからは、地方の時代である。
なぜなら、地方の住民の声をしっかり反映しないと、住民が負担を了承しなくなってくるからである。
地方議員は、そういう住民の意向をきめ細かく拾い上げるのが、本来の役割であった。それが制度疲労を起こして、一部住民の利権代表と化した議員たちが増えてきた。
これでは、地方の時代ははじまらず、日本の民主主義は行き詰ってしまう。
議員さん方が、ひろく地域の住民を代表する者として、きめ細やかにその意向を吸い上げ、住民大会など開かずとも地方議会の議論の中にあらゆる層の住民たちの意向が反映され、みんなの納得する決定が行われるよう、踏ん張っていただく正念場にきていると認識している。
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