自分のことはやれる限り自分でやらなければならない。生きていくための基本原則である。
だから学校教育を卒業すると人は職に就いて、自分が生きるために必要なお金は自分で稼ごうとする。自助である。そのお金は、ほとんどが直接または間接に市場で生み出される。市場は自助の仕組みである。
しかし、当然であるが、自助だけで生きていけない人は数多くいる。それを支えるのは社会保障である。社会保障は主として保険料と税金で賄われているが、これを負担する国民の生活は大変である。だから、それに代えて、お金のかからない助け合いで支えようという動きが出てくる。もともと庶民は、社会保障などという制度が生まれていなかった時代、自助と助け合いだけで生きていたのだから、私たちはそういう原理的な生き方(互助を重んじる生き方)に戻ろうとしているのである。
■ぶつかり合い
ところが、その助け合いが自助を生み出す市場と衝突する。
その例の第一は、外出支援の助け合いとタクシー事業との衝突である。戦後、タクシー事業の免許をとれない人々が白タク営業に走り、厳しい取り締まりが行われた。
1990年代に入り、過疎地の高齢者たちが自らは車を運転できず、買い物や病院通いに困り、生活できなくなった。見かねた地域の仲間たちが自分たちの車を使って、外出支援の助け合いを始めた。高齢者たちは喜んだが、何度もただ(無償)で送り迎えしてもらうのは気が引ける。そこで、ガソリン代とちょっとした謝礼の気持ちをあらわすために、タクシー代の半分以下程度のお金を払うようになった。国土交通省は、タクシー業者に押されて、これを取り締まっている。白タクだと言う。
今は、例外的に謝礼をもらう自家用運送も認められるようになっているが、許可される範囲はきわめて狭く、人口減少地に住む人々や自治体は困り果てている。タクシー業者もほとんど来てくれないような地域で、なぜタクシー事業という市場を絶対の価値として、謝礼付きの助け合い活動を禁止するのか。市場は、住民の暮らしを決定的に不便にしてまで守らねばならないものか。
その例の第二は、これも謝礼金付きの助け合い(有償ボランティアと呼ばれる)だ。1980年頃から、身体が不自由になった高齢者のために、買い物や調理、掃除などの家事をして生活を助けるボランティア活動が少しずつ全国に広がりだした。ただ、継続的に支援を受けるので、受ける方は気が引ける。そこで、最低賃金以下程度のお金を謝礼の気持ちで払う仕組みが生まれた。これを、地方の労働基準監督官は、労働法規に反するとして取り締まろうとした。ボランティアを広める運動をしている私は当時の労働省と話して、謝礼金(スタイペンド)付きのボランティアは、労働ではないと認めてもらったが、最近また取り締まるところが現れている。
謝礼金と言っても家政婦さんの得る市場価格の半分にもならず、それもお金目当てでなく相手の気持ちを卑屈にしないために受け取っているのに、これを労働と言われてはボランティアの気持ちが萎える。行政はなぜ助け合いの実情を理解せず、杓子定規な法解釈で労働市場を優先させるのか。
■優先すべきは
その例の第三は、現在介護保険法によって要介護度1及び2の方たちに行っている調理や買い物などのサービスをとりやめて自助でやってもらおうという動きである。これはまだ実現していないが、その主張の根拠は市場のサービスが充実して配食や宅配のサービスは簡単に行われるようになったから、身体が不自由な人も自分でそのサービスを利用すればよいということである。背後には、市場のサービスを発展させたいという計算がある。介護保険制度は、40歳以上の人たちが払う保険料で、身体が不自由になった時に助けてもらう公的な仕組みなのだが、そのサービスよりも市場のサービスを優先させてよいのだろうか。市場のサービスはあっても、困った状況になった時に自分のお金で賄うのでなく、助けてもらうという約束で払うのが保険料なのではなかろうか。
市場(自助の仕組み)と助け合い(互助)の仕組みをしっかり整理する必要がある。
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