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つれづれタイム
更新日:2005年9月16日
頼れない己れ

 漱石のどこが明治時代に受け入れられ、今ふたたび共感を得ているのだろう。
 初期の作品『坊つちやん』や『吾輩は猫である』は、わかりやすい。通俗なるものへの批判が痛快である。それは、明治時代も今も、人の性(さが)は、通俗だからである。
 後半に入っての作品、たとえば『それから』『門』『こゝろ』についてはどうだろう。にわか評論家を気取る気は毛頭ないが、キーワードは、「友人の恋人・妻を奪う男」であろう。
 『それから』の代助は、親友に恋人三千代を仲介して結婚させながら、彼女が幸せでないと知るや、自分の地位を捨てて彼女を奪う。『門』の宗助は、親友と同棲していた御米(およね)を奪い、地位を捨てる。『こゝろ』の主人公である「先生」は、下宿のお嬢さんを自分のものにするため、お嬢さんを愛していた親友の弱点を突いて自殺させる。
 古来、文藝の主題は不倫である。自分でも押さえがたい強い愛情が、世間の掟(おきて)と真向から衝突する。そこで生じる恋人への誠実さと社会的責任とのせめぎあい、断ち切れない思いの生々しさなどは、背景がどの時代であっても、読者の大きな感動を呼び起こす。
 では、漱石の不倫ものの特徴は何か。
 それが「親友への裏切り」なのだと思う。全体主義の時代、あるいは、帰属する社会の掟が個人を絶対的に支配する時代にあっては、不倫は、行為者にとって、無条件に掟違反であり、死を含む社会的制裁を覚悟すべき行為であった。
 ところが、封建制全体主義の機構が崩壊し、新しい価値観の創造が求められた明治時代にあっては、自意識にめざめた個人は、社会の掟を無条件には受け入れない。そこで漱石は、親友への裏切りという掟違反を持ち出したのではなかろうか。
 妻・恋人と親友とは、自分が、自分の責任と選択とでつくり出した、最小限の社会であり、それをつくり出した人にとって、もっとも重要な社会である。その一方のために、他方を裏切る行為は、いわば自分自身の一部を切り落とす行為であり、当然に激しい心の葛藤(かっとう)をもたらす。それは、自我を切り裂く行為である点において、己れの願望のために社会の掟に反する行為とは比べものにならない。
 そして、漱石は、不倫の主人公たちに、決して救いを与えなかった。そこが、おおらかな自我肯定派である白樺派や自然主義の作家たちとは異なるところのように思われる。
 漱石は、イギリス留学で、エリートとしての自信を失い、個人のもろさを知った。明治のエリートたちは、封建制を打破した新時代の解放感と、個人の力への自信や高揚感を味わった後、やがて頼るべき社会の掟を失い、また、個人の力の限界を知って、不安感にとらわれていったのではなかろうか。漱石の後半期の作品の主人公は、元気のいい確信犯の坊っちゃんと違って、自分に確信の持てない不安に揺れる男たちである。そして、それが当時の読者をとらえ、さらに、今の読者をもとらえているのではなかろうか。
 なぜ、今の読者をもとらえるのか。
 それは、その後の歴史をたどってほしい。
 文明開化でデモクラシーを知った明治時代を経て、日本は、先進列強が実はとんでもない侵略主義者であることを知り、たちまちドイツ帝国主義を見習う全体主義に走る。私は第二次大戦中、小学生であったが、天皇陛下のため身を捧げる人々の優越感を知っているし、一方、自分の欲求を抑圧して非人間的な生き方をする人々の重い鈍痛も知っている。そして、戦後の会社絶対の全体主義がバブルで崩壊し、人々は、個人としてリストラと能力主義の波の中に放り出された。頼れない己れを頼るしかない時代。そういう面で、現在は漱石のころに似ているのかも知れない。全体主義に戻ることのないよう、強い自我を形成していくほかないと思う。

(文藝春秋掲載/2004年12月)
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