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つれづれタイム
更新日:2005年9月16日
私のお葬式

日本海の青く荒い波に自い骨を撒いてほしい

 ポックリ、スキッと死にたいが、こればっかりはわがままがきかないから長わずらいをするのかも知れない。その場合の私の治療法はもう決まっていて、「死期はいくら早まってもいいから、痛いのと苦しいのは絶対避けてほしい」。別に近藤誠さんにかぶれているわけではないが、ガンとわかっても手術はもちろんのこと、放射線治療もごめんである。蝶々のまぼろしがとぶような、楽しい麻酔薬を投与して欲しい。
 さて、死んだらどうしてもらうか、である。
 昔々のNHKテレビに「夢で逢いましょう」と言うほのぼのとした番組があって、私が大変気にいっていた永六輔作詞・中村八大作曲の歌に、
 俺が死んだらあいつのことなど
 誰も覚えていやしない
というような一節があった。
 私も「あいつ」のように、覚えてくれているひとが「一人」だけというなら告別式も要らないのであるが、覚えていてくれている方々が何人かいてくだされば、やはり、そういう方々のために、何らかの儀式をして頂く必要があるのかも知れない。
 そうはいっても、お坊さんが、聞いている者にはわけのわからないお経をあげるお葬式や告別式はヤメにして頂きたい。結婚式も、神さま仏さまにお世話にならないパーティ式でやったから、今更お世話になるわけにはいかないのである。
 死んだらすぐ骨にしてもらって、それを、適当な時でいいから、日本海に撒いてほしい。これは私の若い頃からの夢なのであるが、そういう話をしたら、亡き母が、
 「そんなことを言っても、死んだあとは何をされてもわからんのやから、残った人がしたいようにするわよ」と言った。
 母としては、堀田家の墓に入らないと言う、当時としてはとんでもない考え方に気分を害したのかもしれない。理屈は母の言うとおりであるが、何しろ私は、閉所恐怖症なのである。わが骨があの暗くてじめじめとしたお墓の穴に閉じ込められるかと思うと、生きているうちからゾッとしてしまう。
 幼いころから多感な青年時代までなじみ、今も心ひかれる日本海の青く荒い波に、私の白い骨を撒き散らしてほしい。そのようにして、自然に戻っていきたいのである。

イエスタデイ・ワンスモアとアメイジンググレース の曲で

 お別れの式は、ホテルで、ビュッフェスタイルのレセプションを希望している。
 今の形で、さわやか法律事務所とさわやか福祉財団が続いているなら、両者の共催で、法律事務所が仕切ってくれるのがいい。私が生きている今も私の行動は、そのように仕切って貰っているのだから。
 レセプションは、参加自由、香典なし、読経、挨拶等一切なし。志ある人は花一輪を写真にさし向けて頂く方式でいかがであろう。
 音楽だけは、静かに流しておいてほしい。曲は、イエスタデイ・ワンスモアとアメイジンググレース。前者は思い出さまざまな曲、後者は聞いた途端に、「これぞわが告別式の歌」と決めた曲。二曲で足りなければ、赤蜻蛉、刈干し切り唄となごり雪。だれかうまい人が送別の辞がわりに歌って下さるのもいいなと思う。
 会場には、時間内に適宜に来て下さって、思い思いに好きな話をしながらワインなりブランディなり冷酒なりペリエなりシャンペンなりを傾けて頂きたい。もともと死はもっとも個人的な出来事なのだから、送る方もそれぞれのスタイルであってほしいのである。
 ここまで話を詰め、それなりのお金は残す段取りをしているのだが、といって、早くその時がきてほしいと望んでいるわけではない。人には死の予感というのがあるそうで、私もわりあい予感が働く方なのだが、まださっぱりその予感はしない。
 なにしろ死ぬまでにやりたいことが多すぎて、死ぬことを詰め終わった途端に、次にとりかかる事業について考えている有様である。こんな調子でうかうかしていると、皆にとり残されるおそれがある。少なくとも息子達より先には死にたいと思っている。

(FAN倶楽部掲載/1997年7月1日)
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