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定期連載 学びの時評
更新日:2005年9月16日
自分を大切だと思う心

 非行少年の立ち直りの決め手は何か。
 それは、自分を大切だと思う心であろう。私は、「自己存在の肯定」と言っている。心理学者には、「自己肯定感」と表現される方もいる。
 日立みらい財団が長らく支援してきている研究誌「犯罪と非行」には、矯正関係の実務家や学者たちのすぐれた研究の成果が発表されている。私が愛読しているのは、少年院や刑務所の現場にいる教官や指導官たちの、素朴な、しかし、情熱にあふれた感想である。
 そこで出合うのが「多くの非行少年たちは、自分はどうでもいい人間だと思っている。だから、人の命や身体が、その人たちにとって大切だという感覚がない」とか、「自分はだめな人間だと思っているから、頑張って立ち直ろうという意欲がない」「自分にも投げやりだから、被害者の苦しみを想像しようともしない」という趣旨の文章である。
 私が検事だったころに少年事件を取り扱った乏しい経験からしても、まさにその通りだと思う。
 非行少年の成育歴をたどれば、親から無視され、虐待された子もいれば、たっぷり小遣いをもらい、好き放題にさせてもらっている子、ペットのようにかわいがられた子、厳しいしつけの中で高い達成目標を示され、必死に親の期待に応えようと頑張って挫折した子など、さまざまな子どもがいる。
 しかし、そういう子どもたちに共通しているのは、子ども自身の人格が認められていないということである。言い換えれば、親が自分の視点で子どもに接しているのであって、子ども自身の望みや気持ちをおもんばかり、彼らが自ら伸びようとする力を生かそうという配慮がされていない。
 ただ、親はそういうことに気付いていないから、発覚した非行にびっくりしてしまって、「自分を犠牲にして、あんなに子育てに頑張ってきたのに」とか、「個性を認めて自由にさせてきたのに、学校や周りの連中が悪いから染まってしまった」などと言いつのる。
 実は、子どもの気持ちや欲求に気付かず、ただ押さえ込んだり放任したりしていただけなのである。
 非行少年に限らず、無気力な子、不登校の子、あるいは表面的にはいい子ですら、かなりの数の子が、傷つき、疲れ果て、生きる意欲を失っているように見受けられる。
 講演会で、ある高齢者から「今の若いお母さんは道徳を教えられないから、高齢者がこれを教えたいが、どうすればよいか」とご質問を受けた。
 「大人がたとえばきちんと挨拶(あいさつ)をするなど、やってみせることから始めてみましょう。直接教えるなら、まずそのいいところを認めて、信頼されてからにしましょう」と答えた。

(読売新聞掲載/2004年5月31日)
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