人の原点は、ほかの生物と同じく、自己中心主義(自己中)であろう。そうでなければ、生きていけない。市場は、その原理に立って築かれる。
とはいえ、人は、自己中だけでは生きていけない。そのことを教えるのが、教育の重要な役割である。
しかし、子どもを教える人々も、おおかたは自己中である。
親は、自分の子どもが従順に親の言うことを聞き、よく勉強していい大学に入り、いい職業に就くことを願っている。「自分のしたいことをして、幸せに生きてくれれば、どんな職業についてもいいよ、犯罪者にさえならなければ」と本心から思っている親は、まだ少数派である。
教師は、学級がおだやかで、自分の教える子たちに問題が生じないことを願っている。もう少し正確にいえば、問題が起きてもいいが、それが表面化して自分の身にふりかかってこないことを願っている。自分の身分の安泰と日々の生活の安寧をまったくかえりみず、それぞれの子どもたちの成長のために献身する教師は、例外的であろう。
文部科学省や教育委員会、その他教師をバックアップする組織も、基本的に自己中であって自分たちの立場を正当化することを第一としている。
そして、いうまでもなく、子どもは自己中の塊である。それが子どもというものである。
さて、自己中と自己中とが衝突すると、どうなるか。
親あるいは教師は、権力と権威で子どもを屈服させる。力の強い方が勝つのである。それが教育だと思っており、子どもがいうことをきくことをもって、教育の成功だと思っている。
しかし、それでは子どもの身には着かない。彼らが学ぶのは大人の偽善と、理不尽な力が勝つという不合理である。
子どもの自己中を正すためには、自己中な子ども同士がぶつかりあい、その中で自ら学び、協調することを覚えさせるしかない。子ども同士なら、権威と力で抑えつけるという装置が働かないから、人間関係をつくる中で自然に学ぶことが可能になるのである。
大人は、子ども同士の交わりの中で子どもが自己中を正していくのを見守る。それが、大人のできる最高の教育であろう。力で抑えようとすると、ついに切れた子どもが、さまざまな形で反抗し、教育にとって最悪の事態が出現する。
では、自己中な大人同士が衝突するとどうなるか。
ここでも、力の強い方が勝つ。
教師をバックアップする組織の人たちと教師とが衝突すれば、バックアップ組が勝つ。教師と親は、いい勝負である。
しかし、いずれの衝突も、教育上有害無益である。大人なのだから、子どものために協調していきたいと思う。
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