更新日:2010年4月22日 |
神が与える特別な魅力 |
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宮家の紀子さまがお話されながらあわせて手話されるお姿は、まことにかっこいい。黙って立っておられるだけでかっこいい方が、やさしく微笑みながら手話もされるのだから、しびれてしまう。
私もそうしたいと思うのだが、もともとかっこはよくないし、手話を覚える意欲がない。なにしろパソコンもケイタイも使えないのである。それが使えなければ現代の情報社会で生きていけないことは骨身に染みて分かっている。孫からのメールも受けられなくて、愛孫を愚妻に獲られてしまった情けない老人である。だから、手話は、遠い。
しかし、手話通訳の方々は、好きである。
私の講演は、福祉やボランティア関係が主だから、手話通訳が入ることが多いのだが、これまで感じの悪い手話通訳の方に出会ったことがない。
みなさん、すっきりしていて、なりは地味であるが、どことなく明るい。笑顔が魅力的で、心がいきいきしている。美しい心が表に現れていて、だから好きになってしまうのである。人に役立ちたいと願う人々だけに神様が与える、特別な魅力なのであろう。
「つとめて英語は使わないようにしますが、もともと早口で、時間がなくなってくるとついその癖が出るかも知れません。その時は勘弁して下さいね」と、事前にお願いしておく。
そして、横目で手話通訳さんの様子をうかがいながら話を進めるが、通訳が遅れていると感じたことはない。もともと逐語訳でなく、意訳なのだから、少々早口であろうとこなしてしまわれるのかも知れない。
困るのは、会場の多くの人の視線が手話通訳さんに注がれてしまう時である。特に手話通訳さんが演台から遠い舞台の袖におられて、そのためこちらが聴衆の視線から完全に外れてしまう時は、淋しい思いがする。「しゃべっているのはこっちだよ」と言うわけにもいかず、「もうちょっと近づいてほしいよな」と思いながら、今一つ気合いが入らないでしゃべっている。
うれしいのは、手話通訳さんが話に応じて笑って下さったり、感動して目をウルウルさせて下さった時である。こちらは、聴衆の笑いを取って興味をひき、気楽に聴いてもらえる雰囲気をつくって気持ちを伝えたいと努力している。しかし、能力が及ばず狙った笑いがとれなかったり、心をこめて披露した逸話がまるで感動を引き起こさない時もある。それはまことに空しいことであるから、手話通訳さんの表情を真っ先にうかがいながら、この話が通じるかなと瀬踏みをする。手話通訳さんは、話を伝えるのに一生懸命であるが、もちろん話の中味は先読みするくらいにこなして、手話にされる。話をこなした時に、思わず現れる手話通訳さんの表情で、こちらの話の伝わり具合がわかる。
思わず笑みを浮かべたり、感動の表情を見せたりされた時は、うれしい。会場の反応と同じくらいにうれしい。
講演が終わるとそそくさと帰ることが多いが、手話通訳さんにはすれ違う時に「ごくろうさま」と声をかける。講演が成功した時は、手話通訳さんも表情が明るい。「よかった」と思って下さっているのであろう。
やりがいのあるお仕事だと思う。
通訳さんにやりがいを感じて頂くためにも、話す方は、しっかり伝わる話をしなければならないと、改めて自分に言い聞かせている。
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(「手話通訳問題研究」111号/2010 Spring掲載) |
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