更新日:2008年5月24日 |
選択の時
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戦後の政治で、国民に政治の選択肢が示されたのは、敗戦後の10年ほどの間であった。この時、世界は、資本主義諸国と共産主義(をめざす)諸国とに分かれており、憲法は前者を選んだものの、国民は貧しく、後者の体制への変革を主張する勢力も強かった。
火焔瓶が飛び交う中、何度かの選挙で国民は前者を選んだ。大勢は、平等よりも自由による経済繁栄を望んだのである。いわゆる五五年体制のもと、政治は、政官財の連携により経済発展を遂げるという方向をとり、国民は、それ以外の選択肢を捨てた。
それでよいのかという政治的気運が生まれたのは、1990年代に入ってからである。経済や社会の情勢は、すでに1970年代後半から新しい段階に入り始めていたのに、日本の政治は鈍感だった。
1990年代、政治は、まず選択を可能とする政治体制、つまり、二大政党制への自己変革を遂げた。不徹底ながら、小選挙区制を採用したのである。そして、古い仕組みを改めるためまず財政改革にとりかかったが、どっこい半世紀近く根を張ってきた政官財の連合勢力は、そう簡単には引き下がらない。改革の試みははね返され、旧勢力は温存された。
これを抵抗勢力と呼び、壊しにかかったのが小泉政権であった。「官から民へ」との旗印を掲げ、大企業と都市部のサラリーマンを味方につけて構造改革を進めた。示された選択肢は、「構造改革をするか、しないか」である。
小泉さんがあれだけの支持を集め続けたのは、国民が改革を選択したことを示す。
しかし、小泉さんが示したこの選択肢は正しかったのであろうか。
私は、二つの面で不十分であったと思う。
一つは、構造改革をするかしないかは、もはや政治の選択肢ではないということである。
世界の先進諸国をみても、構造改革は必然であり、日本のように経済大国となった国が政官財の連合で経済を引っ張るといった発展途上国型の仕組みを採っていては、発展できるはずはない。その意味で、小泉さんの政治(国内政治に限る)は、客観的情勢の流れに沿う唯一の方向であった。
それに対し、古い仕組みの下で利益を得ている人々が抵抗するのは人情であり、現実には政治勢力は「改革するかしないか」で二つに分かれた。しかし、それは明治維新に際し「幕府政治を改めるか否か」の二つの勢力が争ったのと同じで、客観的情勢の流れからすれば、幕府政治が選択されうるはずがなかった。当時の政治におけるあるべき選択肢は、「幕府政治を急激に改めるか、時間をかけ、犠牲を少なくしつつ穏やかに改めるか」ということであった。小泉構造改革における選択肢も「改革を急激かつ全面的に進めるか、犠牲を少なくしつつ穏やかに進めるか」というのが、政治のあるべき選択肢であったと思う。
後者の選択肢が提示されなかったのは主として野党の責任であり、せっかくの二大政党が生きなかった。もし正しい選択肢が提示されて議論していれば、格差問題や地方財政問題などが置き去りにされ、今日の惨状を招くことはなかったのではなかろうか。
もう一つは、小泉さんの提示した構造改革の欠陥に由来する問題である。
小泉構造改革は、アメリカにならって、もっぱら強い生産者(大きな企業)のための改革であった。企業活動を可能な限り官の束縛から解放する構造改革は、企業の国際的競争力を高める。また、競争により、消費者は、より安価で良質な物やサービスを得ることができる。グローバル化の時代、必然の方策だと思う。
しかし、その結果、分配が減る地方や、働く条件が厳しくなる勤労者は、力を失う。それは、あってはならない政治である。小泉構造改革は、地方分権(権限と財源を地方に委ねる、真正な地方分権)の強力な推進と、勤労の場と生活の向上を確保するための労働改革とを、あわせて行うべきであった。この点がアメリカと事情を異にする点である。
地方には、課税権を大幅に譲渡して、その自主的努力による活動を生む地方改革を進めなければならない。また、働く人々にはまず、提供した労働に値する賃金を支払う仕組みを確立すると共に、働き方を選択できる自由を保障する労働改革を進めなければならない。例えば、就業について年齢や性別による差別を完全に廃止し、能力評価の社会的仕組みをつくって、その評価だけを基準に適職への就業が容易に行える社会をつくる。そして、勤務時間や雇用形態も働く側が選べる仕組みに変える。
それが小泉構造改革と並行して実行されなければならない政治である。
そして、あるべき選択肢は、「生産者のための改革(構造改革)と地方・労働改革のどちらにより重点を置いて改革を進めるか」であろう。二大政党制はそこで生きてくる。 |
(「地方議会人」2008年5月号掲載) |
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