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定期連載

更新日:2011年10月19日

小沢氏裁判が示す基本問題
 小沢一郎氏関連の裁判は、刑事司法の基本問題をあぶり出した。
 第一に、刑事裁判と政治との関係である。
 小沢氏自身に対する裁判もその秘書たちに対する裁判も、当然のことながら、刑事責任を問うものであって、政治責任はこれとは別の社会的判断である。
 政治責任については、秘書たちに対する裁判で、公共工事に「天の声」を出して計1億円の献金をさせた事実が明らかにされている。小沢氏らはこれを覆す説明ができていないのであるから、判決の認定如何(いかん)にかかわらず、この事実は社会に顕在化した事実である。小沢氏らの政治責任は、その段階で生じている。この当然のことわりに目を向けず、刑事裁判で確定的に事実が認定されなければ政治責任も生じないような言動がまかり通るのは、不思議でならない。
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 第二に、秘書たちに対する判決が提起した「推認」の問題である。
 判決に推認が多いと非難し、それが最近の流れに反するという識者もいる。誤りである。
 近代の刑事裁判は、犯人の主観的意図・認識(確定的な殺意を持っていたか、傷害だけの故意かなど)の悪質性について責任を問うものであるが、これら内心の事実を知るのは本人だけだから、その直接的証拠は自白しかない。そこで、厳しい取り調べを容認して内心の事実についての自白を求め、精密に証拠を揃(そろ)えて内心の事実の認定をするか、それとも取調べの厳しさという幣害を避け、内心の事実については客観的事実から推認するか、いずれかを選ぶことになる。
 ドイツ刑法をモデルとするわが国の刑事司法は、精密司法の実務でやってきたが、最近やっと、英米流の客観的証拠に重点を置く方式に歩を移しつつある。これが先進諸国の流れである。
 秘書たちに対する判決は、検事調書の多くを排除して厳しい取り調べを否定する一方、法廷に出された客観的事実から、秘書たちの意図や認識を推認しているのであって、これはまさに大きな刑事司法の流れに沿う判決である。
 取り調べの厳しさを排しようとする全面可視化を主張しながら、推認の排除を唱える論者は、刑事司法の目的が真実の発見にあることを忘却しているというほかない。
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 第三に、小沢氏自身に対する裁判が提起した「認定基準」の問題である。
 検事はその事件を不起訴にしているのであるから、従来の精密司法の実務による判断基準に立てば、この裁判は無罪になるのかも知れない。しかし、11人の市民による検察審査会が真摯(しんし)に証拠を検討して、起訴相当の決議を2度にわたって行ったということは、市民の健全な常識を基準として判断すれば、この事件は有罪とされうるということを示す。
 そして、秘書たちに対する判決において認定された客観的事実からすれば、小沢氏自身が4億円を隠した事実を知らないはずはないという推認は、それこそ常識的に成り立つと考えられる。
 この裁判では、もはや時代に沿わなくなってきている精密司法の感覚を、裁判所がどこまで改めることができるかが問われることとなる。 

(信濃毎日新聞「月曜評論」2011年10月10日掲載)

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