母方の祖父小森瑞雲(こもりずいうん)は、信心深く、朝と夕に、必ず般若心経を朗々と詠んだ。年を経てくすんだ金色の袈裟を掛け、大きな座布団にゆったりと座った姿は、並のお坊さま以上にさまになっていた。
日本海に面した兵庫県旧浜坂町(現・新温泉町)の表具師であったが、隠居後は、全国諸寺を行脚した。その四女である母四奈は、同志社女専卒の英語教師で、英文の冒険小説は読んだが、お経は詠まなかった。
にもかかわらず、小学生の私には、般若心経を詠ませた。私のせっかちな性格を直すためだという。神聖な般若心経をそういうよこしまな目的(?)に使ってよいのかについて、私は子ども心に疑問を感じていた。だから、とばすところはとばして、詠むのは核心部分に止めた。要するに、早く遊びに出たかったのである。
核心部分がどこかは、正直わかっていなかったが、それでも「色即是空 空即是色」は、私の心に刻み込まれた。なにしろ冒頭の部分でとばすわけにはいかず、口調もよいから覚え込んだだけであるが、中学から高校へと進み、恋の悩みや死の誘惑など、思春期の波立つ心を持て余すうち、「諸行無常」の言葉が、すんなりと身にしみ込んだのである。「色即是空」の思想の深みにふれたと思った。
● 「色即是空」の思想とともに
第二次世界大戦を小学生時代に経験し、戦後の長い日本の平和と、世界各地で絶え間なく起きる悲惨な戦争が併存する時代を73年間生きてくると、おのずから「色即是空」の思想も体内で熟してくる。
私は、宗教とは、有限の人間の無限に対する願望に応える思想だと理解している。人間は他のあらゆる生物と同様に有限の身であるにもかかわらず、身に備わった生存本能は死をおそれ、無限の生を望む。これに応えるには、身を無限と一体化させるしかない。しかし、それは現象的、科学的には不可能であるから、無限に帰すると信じる以外に方策はない。その信仰の対象が、神か仏である。
神は無限であり、絶対である。その使者がキリスト、ムハンマドなどであるが、彼らは唯一絶対の神の、唯一絶対の使者、つまり、神の言葉の唯一の伝達者である。したがって、使者の言葉が異なる時、宗派の争いが生じる。
これに対し、絶対無限を求めたお釈迦様は仏と化し、その道を追う高僧たちも、それぞれに仏と化して、信仰の対象となった。その説くところに差があるから、宗派の争いは起きたが、仏様は神の使者のように唯一絶対の伝達者であるとは主張されないから、必然的な排他性はない。仏教は、共存可能な宗教である。私は、そこが素晴らしいところだと思う。人の心を救う宗教が、闘いをつくり出してはならないのである。
● 絶対無限なる「空」とは何か
では、仏教において、神に匹敵する絶対無限なるものは存在しないのだろうか。
私は、勝手に、それが「空」なのではないかと思っている。色即是空の「空」である。現代の科学的知識でいえば、「空」は、大空を含む無限の宇宙だといってもよいのかもしれない。現実には宇宙も有限であろうが、個々の人間からすれば、宇宙はほとんど無限に近い存在だからである。
成仏した高僧たちが、有限の身で無限を求める時、彼らの思惟は、有限の身が帰っていく広大無限、静寂不動、不変絶対の世界に至るであろう。そして、修行により欲と心とを無にした時、その世界を体感して、悟りを開くのではなかろうか。その世界が「空」なのだと思う。
そして、体感した無限の世界で現世をみれば、そこにある色(物体)は、すべて、空にすぎないと自覚するのであろう。
その自覚を「諸行無常」と言い表したのであろうが、それは、現世のレベルで「無限の前に、有限ははかない」と言っているにすぎない。では、「無限」である「空」とは何なのか。
私の思い込みかもしれないが、仏教は、「空とは何か。無限とは何か。無限と一体化すればどうなるか」は、思想として言っていないのだと思う。人に無限を説くための俗説は別として、仏と化した高僧たちは、その答えを出さなかった。そして、それは正しいであろう。なぜなら、無限とは、本来、答えを出せない、抽象的な存在だからである。
私自身、「色即是空」の世界に生き、やがて無限に帰するものと信じているが、だからこそ、有限の身のうちに、色(この世)を楽しみ、有限の身を大切にして、したいことを可能な限り、しておきたいと念じている。
有限の生命のあるうちに無限に近づこうとするのではなく、有限のうちは有限をきわめたいと思うのである。その方が成仏しやすいと考えているが、身勝手であろうか。
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