更新日:2007年4月13日 |
晩年の日々
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父母は、5人の子育てを終えると、中京から紫竹へと移り住み、そこでおだやかな晩年を送った。
私も、この4月で73歳、父母に晩年の生き方を学ぼうと、母が残した句集をひもとくと、「憂いなき身に春宵の早寝かな」「二人して貼りし障子の白さかな」と、まことにゆったりしている。
私が子どもだったころの親父は、けっこうせっかちでよく怒っていたから信じられないのだが、晩年の父は、母によると「仏さんみたいにならはって、何でもよしよし言うてよろこんではる」という日々だったようである。
残念ながら私はそうはいかなくて、たくさんの仲間たちとボランティアを広める活動をしているから、ワイワイガヤガヤの毎日である。とても仏さまみたいになっておれないのだが、どちらがいいのだろうか。いずれ私もそういう日が来るかもしれないから、それまではせわしなくてもいきいきやっているのがいいような気がする。
父が肺ガンで亡くなってから3年間、母は一人で暮らした。
加茂川べりの散歩を日課としながら、若いころからの仲間たちとお点前を楽しんだり内外の旅行に出かけたりしていたが、やはり淋(さび)しさを消し去ることはできなかったようである。
「鳥雲に夫は土に還りけり」「日のあたる秋山やさし亡夫(つま)恋し」などと、ストレートな表現の句もあるし、信州旅行では、「春愁や道祖神みな二人連れ」と、思いがにじみ出ている句も詠んでいる。
母も父を追って肺ガンを患い、余命1年と宣言された時、「私は1年ではなく、365日と考えて、一日一日を大切にする」と言った。
「死ぬために生きるにあらず冬薔薇」という句は、冬のばらのように凛然(りんぜん)と生きるという意思の表れである。
奈良の妹の家でそのとおりに生き、80歳で旅立った。 |
(京都新聞コラム「暖流」2007年4月8日掲載) |
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