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提言 教育
更新日:2006年2月10日
通学路の安全と教育

1 通学路の安全確保策の問題点
  痛ましい下校中の児童の殺害事件が続き、全国的に通学路の安全確保策が講じられつつある。
  採られた方策の多数派は、学童を一人にしないために、親が往路、帰路とも付き沿うか車で送迎する、あるいは、集団での登下校に大人(教師またはPTA、近隣の人など)が付き沿うということのようである。そして、学童には、知らない大人に声をかけられたら逃げるということを教え込んでいる。
  これらの方策は、とりあえずの緊急対策としてはやむをえないものと考えるが、教育という見地からみると、おおいに問題だと考える。
  身の安全を守ることは、生活の基本であり、学童の共同作業が必要とされる事柄であるので、本稿で取り上げたい。
  現在多くの学校において講じられている方策には、次のような問題点がある。
  第一に、知らない大人のすべてを、悪意を持っている可能性のある人間だと教え込むことは、学童たちに、ぬぐい去れない人間不信感を植え付けることになる。
  その教えは、「声をかけられたら逃げる」という行動を命令するものであり、その命令は、身の安全を図るという生存本能の中核に関わるものであるから、是非の判断を越えて学童たちの脳裏に刻み込まれることとなる。子どもの頭にたたき込まれた教えが、一生その人の判断と行動を拘束する例は、われわれの周りにあふれている。
  見知らぬ人のすべてを信じることのできない大人を想像していただきたい。彼は、仕事においても仕事以外の社会生活においても、満足な人間関係を結べないであろう。そして、そういう人間の多い社会は、活力を失い、また、あたたかさを失うだろう。上記のような教えは、連携し、助け合うことによって発展してきた人類を、衰亡の方向に向かわせる有害なものというほかない。
  第二に、親がいちいち我が子を送迎するという行動は、子どもを依存症にし、しばしば仲間から孤立させる。
  第三に、教師、PTA、近隣の人たちが付き沿う場合、多くは、割当てにより義務を課するやり方で担当が決まるが、これは必ずといってよいほど無理があるため、不満や不公平感が生じる。
  そのため仲間の間で争いが起きたり、義務の懈怠が生じたりして、子どもたちに、いっそう大人に対する不信感を募らせることとなる。
  このように大きなマイナス効果を生じる方策を採るのも、安全対策の専門家は警察官だということから、その意見に従うためである。警察は、学童の身の安全を守るという視点だけに限定して方策を考えるのであり、当然のことながら、教育上の効果は考えない。
  といって、教育的効果がマイナスだから学童の安全確保を放棄するというのは、無責任である。
  われわれは、通学路の安全確保が同時に教育上のプラスの効果をもたらすような方策を考案し、緊急措置に代えてこれを実施する必要がある。

2 学童による調査、企画及び協働実施
  学童は、子どもとはいえ、大人に劣らぬ自己保存本能を持っている。己れの身は己れで守るという方針を基本として通学路の安全確保をする方策を考えることは、これによって生活の基礎を身に付けさせる絶好のチャンスとなる。
  たとえば、自宅がおおむね同方向にある学童たちを、学年次にかかわらずに集めて一つのグループとし、地図を用いて、通学、帰宅の実情を洗い出させる。そして、一人になる場所、その中でも子ども自身が危険を感じる場所を摘記する。子どもたちのグループ全員に現地を見分させ、危険度と道路周辺の状況を確認させれば、なおよい。
  次に、安全確保のために自分たちは何ができるかを議論させる。
  上級生が回り道をして下級生を送ることはできないか。送るほうは、一人でよいか。
  帰宅時間が違うのであれば、下級生を待たすことは可能か。どこで待たすか。待つ時間を有効に活用する方法はないか。
  複数で帰宅時、危険が生じたら自分たちはどう行動するか。器具は必要か。
  仲間は、責任をもって共同下校の約束を守れるか。どうしても守れない時の連絡はどうするか。
  学童どうしの助け合いではカバーできない場所はどこか。その時間帯はいつか。その場所では、大人にどのように守ってほしいか。
  そのような安全確保策を学年の異なる学童たちが主体的に調査し、企画立案することの教育的効果は、まさに生活科や総合的学習の目的とするところであろう。それによって向上するのは、
  ・主体的に生きる力
  ・現状を調べ、問題点を把握する力
  ・先を読み、対応策を考える力
  ・仲間への友愛と助け合う心
  ・協働の仕方の修得
  ・自分たちの力の自覚と自信
  ・自分と仲間たちの能力の限界の自覚
などである。要するに、現代日本を生きぬくために必要な「自助」と「共助」をともに学ぶといえよう。
  そして、企画したそれぞれの役割を、長期にわたって実施することの教育的効果も大きいであろう。それによって上記の能力や精神が感覚として身に付くほか、
  ・忍耐心(自己の欲求を抑える能力)
  ・責任感と自覚、責任を果たした時の充実感
  ・コミュニケーション能力
  ・年齢の異なる仲間の心情の理解と、人間としての愛情
  ・対立する利害を調整する能力
  ・リーダーシップと協働能力
  ・親や教師への自発的報告の習慣
などが養われるであろう。

3 大人による見守り体制
  学童たちから、この場所は自分たちでは守りきれないとSOSを求められた大人たちはどうするか。
  現在多くの大人たちがやっているように、これを強制的に親や教師に押し付けたり、地域の町内会などに割り当てたりしたのでは、先に述べたようなマイナスが生じる。
  ここは、ボランティアの出番であろう。
  子どもたちが「自分たちも頑張るがこれだけは頼むといっている」ということを知らせて、ボランティアを募集する。伝達方法は、行政の広報であろうと、民生児童委員、社協、町内会、PTA、老人会、NPOなどのルートであろうと、何であってもよい。
  地域には、元気だがやることのない定年退職者がたくさんいるし、子どもが好きでそのためなら一肌も二肌も脱ごうという若者や中年も結構いるものである。彼らは、子どもたちからの申し出とあれば心を動かされるであろうし、やりがいも感じるであろう。
  果たす役割も、割当て制でなく、自分の都合に合わせて曜日や時間帯、見守り方(付き沿うのか特定の場所に座っているのかなど)も選べるとなれば、一段と応募しやすくなる。
  万が一事件が生じても、自ら捕らえる必要はなく、しっかり監視していて必要な通報を行えば足りるということになれば、体力がない人でも身体障害者でも、十分応募できることになる。
  志願したボランティアによる見守りは、ボランティア本人に大きな生きがいと達成感とをもたらすほか、学童たちにも、教育的効果をあげることとなる。
  第一に、大人たちに対する信頼が生まれる。
  自分たちでやれないところを、おそるおそる大人たちに頼んでみたところ、自分たちと親戚関係があるわけではなく、お金になるわけでもないのに、これだけの大人たちが、自分たちを守るために根気強く汗を流してくれている。その認識が、大人への信頼感と、人間に対する愛とを生み出す。
  「たしかに、何百万人、何千万人の大人の中にはひどい人もいるから、危険にそなえなくてはいけないのだが、それよりはるかに多い数の大人たちが、危険の発生を防ぐために、ただでこれだけ頑張り、守ってくれている」と認識することの教育上の効果は大きい。
  そして、ボランティアと見守られる学童との間には、間違いなくコミュニケーションが生まれるであろう。これは、お互いにとって、心あたたまる関係である。人によっては、そのコミュニケーションから、家族のような関係に発展し、異世代交流による人間的成長や社会的知識の修得をもたらす結果が生まれるかもしれない。
  第二の効果は、学童に自立心と共助の心をもたらすことである。
  学童が保護の対象者として教師や親、あるいは見守りの責任者に管理され、大人たちの定めた見守りのルールに従わされている間は、学童は依存心を持ち、自分たちの行動を束縛する大人やルールに反発するばかりで、大人たちに感謝することなどない。
  これに対し、まず自分たちの身の安全の問題として企画立案し、自分たちの方から大人たちにSOSを発信した時は、自分たちの主体性を自覚し、見守ってくれる人に感謝し、彼らと協力しあう心情となる。感謝の念をもって見守る大人たちの協力を評価するから、自分たちでやれることは自分たちでやろうという気持ちにもなる。
  そのように、主体性を持って通学の安全に取り組むから、努力は継続するし、万が一危険に遭遇した時も、教え込まれた指示にとらわれず、自分の判断で臨機応変に対応することが可能になるであろう。
  ここで項を改めて、学童たちの自立心(主体性)と共助の心をいっそう深める仕組みを紹介しよう。

4 地域通貨(時間通貨)の活用
  その仕組みとは、地域通貨のことである。
  地域通貨には、ご存知のとおりいくつかの類型があるが、通学路の安全確保策との関係でいえば、時間を単位とする地域通貨(時間通貨)が適しているであろう。
  一般的な形をいえば、助け合いのグループをつくって通貨を発行する。通貨には自分たちで名前を付け、15分券、30分券、1時間券などをつくる。そして、それぞれが仲間のためにできるサービスを登録し、登録されたサービスがほしい人は、その時間分の時間通貨を渡してそのサービスを受けるというものである。アメリカのタイムダラーは、6歳の子どもでも会員になってサービスをしたり受けたりしているし、日本では、小学校でこれを採用し、学童間の助け合いを推進しているところもある。
  これを通学路の安全確保策に応用すれば、次のようになるであろう。
学童たちのグループで時間通貨を発行する。紙幣にしてもよいし、ゲームのチップなどを用いてもよい。そして、見守りをしてくれたボランティアに対し、見守り時間分の時間通貨を渡す。一人で見守ってもらった学童はその子がサインをして渡し、三人で見守ってもらった学童はそれぞれが時間を3等分して渡す。複数の場合、順番を決めて1回分を一人が渡すことにしてもよい。あるいは、もっとおおらかに、一人の場合も複数の場合もサインをせず(つまり、担当を決めずに)渡してもよい。
  時間通貨を受け取ったボランティアは、登録されたサービスを受けたい時、サインした学童(サインをしない仕組みにした時は、そのグループの学童の誰か)にその時間通貨を渡し、その時間分のサービスを受ける。たとえば草取り、調理などの手伝い、肩叩き、掃除、お買物、留守番、子守り、皿洗いなどの登録されているサービスを頼むのである。一人で見守ってもらった学童がそんなにお返しができるのかという疑問もあろうが、時間通貨の実例をみれば、受け取った時間通貨のうち使われるのはせいぜい1、2割である。まして相手が低学年の学童の場合は、学童の気がすむ程度の時間になるであろう。時間通貨は助け合いの循環を生み出すための道具であって、一般のお金と違い、受け取った以上は全部を使おうなどという気持ちの人は、そもそも時間通貨のグループに入ってこない(ボランティア活動をしない)のである。
  つまり、時間通貨は、年齢や能力、資格、サービス内容の如何にかかわらず、お互いが対等の関係で助け合うためのものである。そして、これを通学路の安全確保のために活用するメリットは、見守りを受ける学童が、援助されるという従属的、被保護的立場に立つのでなく、相手に対するサービスと交換する形で見守りサービスの提供を受けているという、対等の立場に立てることである。その差が、学童の自立心と共助の心を育むのである。

5 通学路の安全確保策についての要
  時間通貨の採用まで行うかどうかは別として、以上に述べたように、見守られる学童たち、見守る大人たちのいずれについても自主性を最大限に重んじて方策を考案、実施することが肝要である。そうすれば、通学路の安全確保策は、教育上、大きなマイナスの効果を生じるどころか、(学童の生活面及び総合能力向上面のいずれにおいても)大きなプラスの効果を生じるのである。

6 児童を対象とする犯罪の防止と教育
  最後に、児童を狙う犯罪の防止のための教育について述べておこう。
  刑務所や少年院における特別な教育はこれから開発されることになるが、そういった特殊教育ではなく、一般の学校における教育を取り上げる。
  児童の身体を対象とする犯罪は、児童に対する性的欲求に起因するものと、その他の欲求不満に起因するものがあるが、いずれの場合も、犯人は正常な方法で欲求を満たせない資質を持っていることが特徴である。裏返せば、大人を対等な関係で相手にできない劣等感の持ち主だということになる。そして、これは児童対象者に限らないが、理性や倫理観などで自己の欲求をコントロールする力が弱く、自己中心的で未成熟な精神の持ち主であり、自分の存在意義を実感として肯定できていない。京都の塾における児童殺害犯はこの類型にあたらないように思われるかもしれないが、犯行前後の行動などからして、教師としての自己に対する評価に自己の存在意義のすべてを委ねていたという点において、トータルな人間としての自己の存在意義を見いだしていなかったのではないかと推測される。
  このような性向の人が育つ過程で共通する現象は、特異例外的な精神的疾病に罹患した人を除けば、「トータルな自己の存在意義を肯定し、生きることのよろこびを実感し、他者を自己と同様に肯定し対等に交わる中で、自己と他者の歓び、楽しみ、共感を創り出していく」という体験を経ていないことのように見受ける。
  似た年齢の子どもどうしで遊ぶ中で、自分の楽しみを追求するためには、自分の気持ちも仲間たちの気持ちも生かすことが必要であると体得する経験に乏しい。そして、逆に、いじめやからかい、大人の怒りにまかせた非合理的な叱責や虐待、大人の都合による自由の極端な制限などを受ける中で、劣等感、弱い自己主張力と極端な服従心、自分で判断して行動を選びとる能力の劣化、他者を思いやる心の欠如などの性向を身に付けていく。
  もちろんそうした性向の持ち主も、性的欲求やその他の欲求は人並みに有している。それがコントロールできないほどに蓄積された時、劣等感から、弱者である児童に対する加害行為の形で爆発する。検事として観察してきた実感をまとめていえば、以上のようなことになる。
  この観察を前提としていえば、児童の身体に対する犯罪を抑止するための教育とは、自己存在の肯定感(自己肯定感、あるいは自尊感情)を伸ばすとともに、それが自然に他者という存在に対する肯定感を生み出し、つながるよう導く教育であるといえよう。
  そして、そのような教育こそ、日本の現状に照らして、もっとも求められる教育であり、ひとり心の教育(道徳教育)として行われるだけでなく、すべての教科を教える場合の基礎にある事項として行われなければならない。生活科及び総合的学習においてはもちろんのことである。
  子どもたちの自主性を尊重すること、そして、子どもどうし助け合い、尊重し合ってことに当たる体験をさせること。通学路の安全確保策のあり方として述べたこのことは、実は、子どもたちが将来児童に対する加害者になるのを防ぐための教育としても、有効であることを、私は確信している。

(日本文教出版(株)「日文の生活科教室 」2006 No.43掲載/2006年2月1日発行号)
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