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提言 教育
更新日:2010年3月6日
「社会で生きる力の育成」

「社会で生きる力の育成」
 
1 社会で生きる力とは

  「生きる力」の育成が教育の目標とされているが、それはもちろん絶海の孤島で生きる力ではなく、現代社会の中で生きる力である。
  では、社会の中で自分の能力を発揮して社会に役立っている人は、どんな人であろうか。
  そういう人が共通してもっている特質を育成するのが「生きる力」を育成するということになる。
  読者は社会人であろうから、社会で出会った「生きる力」が強いと思う人たちを頭に浮かべながら、筆者の意見が共感できるものかどうかを検証していただきたい。

 人の能力を知・情・意の三つに分けて考察すると、生きる力の基本は意欲である。
  どんな社会でも、輝いている人は意欲的である。
  よりよく生きたいという力がみなぎっているから、職業を選ぶ時から「自分を生かしたい」という気持ちが強く、自分の能力を生かしやすい職、やりがいを実感できそうな職をめざす。形式的な採用基準と合わず就職に失敗しても、簡単には諦めない。挑戦をつづける、あるいは類似の職をさがす。親や教師、先輩が世間の評価基準に従って勧める職も、気が向かなければ(自分には合わないと思えば)選ばない。
  そして、その職に就けば、自分の目標(例えば、わたしは教師としてこういう子どもを育てたい、など)があるから、熱意をもってその仕事に取り組む。時に思い込みが激しすぎて組織の方針と衝突する。そうでなくても理想と現実は違うから、ことなかれ主義の上司や平穏にことをはこびたい同僚にうとまれることもあるが、そう簡単には辞めない。ちょっとした挫折や人事上の不満、あるいは少し待遇のよい職場からの誘いで簡単に辞めてしまう、意欲のない就職者とはそこが違う。
  意欲があるからといって協調性に優れるわけではないが、よりよい成果をめざして、与えられた職場環境の中で頑張るうち、人物が練れてくる。
  同様に、意欲があるからといって知識に優れるわけでもないが、これも必要性に迫られて自ら身に付けていく。
  このようにして、意欲のある人物は、選んだ職場において、自己を生かそうと努力を重ねるうち、顧客(教師の場合は生徒)の信頼を得、同僚の敬愛と上司の評価とを獲得していく。一言でいえば、職場で輝く人物に育っていくのである。
  そういう人物はどんな職場でも一つのセクションに何人かいて、まだ役職の付かないヒラのうちから、何となく仲間たちから一目置かれている。人事は上司の評価で行われるが、いい人事は、自然に仲間や顧客などの間で形成されていく評価と一致する。そういう評価を受けている仲間を観察していただきたい。共通して、身体や言動から何となくエネルギーのようなものが発散されているのを感じられるであろう。それは、その人の意欲から生まれているのである。
  なお、職を退いた人についても、その人の人生がなお充実しているかどうかを決めるのは、まぎれもなく意欲である。情の豊かさも知識の豊富さも、退職後は意欲がなければ埋没してしまう。
  意欲のある人は、自分の心の命ずるままに好きなことに挑戦するし、社会になおも役立とうと望む。そして、そういう人はいくつになっても好奇心、探究心が盛んである。
  例えば93歳の秋山ちえ子さん(ラジオパーソナリティー・評論家)、98歳の日野原重明さん(医師・医学博士)。同席していると、次から次へと質問が来るし、新しい自説を展開される。その知識はまさによりよく生きようとする意欲から噴出していることがわかる。

  次に「生きる力」で大きな役割を果たすのが情である。感情、情動、こころ、直感、交流などが情の分野であろう。人格、品位、誠実さなどの性質も知や意ではなく、情の関係で判断されることが多い。
  一般には、社会で生きる上で最も重要な要素は、情でなく、知だと考えられている。例えば多くの企業や官庁が採用の判断要素とするのは情の豊かさではなく知識のテスト結果であるし、資格試験ももっぱら知識のテストである。
  そのために、患者や依頼者に対する人間的愛情を欠く医師や弁護士、あるいは生徒や高齢者に対する人間的愛情をもてない教師や介護福祉士が誕生し、常識では考えられないような職務上の不祥事を起こしている。これらの職業は相手の全人格を対象として行わなければならないものであって、単にその知識を発揮して担当する職務を行えばそれで足る性格のものではない。しかし、愛情とか感性の豊かさなどについては判定の客観的基準をつくれないから、知識だけのテストで合否の判定をしている。そこから不適格者がかなり合格してしまうギャップが生じるのである。
  生徒に愛情を持てない教師は、担当分野の専門的知識をいかに多くもっていようとも失格である。そのことはここで説くまでもないであろう。
  一般のサラリーマンの場合はどうか。研究専門など特殊な業務は別として、組織で働く者の重要な任務が説得である。顧客の開拓・売り込みは説得であるし、組織内では担当の仕事の遂行のための上司の説得、部下をやる気にさせるための説得、関連する業務を行う仲間に対する説得などが日常的に必要であって、その成否が仕事の成果を左右する。サラリーマンが組織で行動するための基本原則として「ホウレンソウ」(報告・連絡・相談)を教えられるのは昔から変わっていない。今の言葉では“コミュニケーション”ということになろうか。
  そして、説得の手段として重んじられるのが、論理である。特に官庁や大企業の決裁文書は、論理が通っているかどうかの勝負になる。まさに、知の世界である。
  では、論理で組織は動くのか。論理で顧客を説得できるのか。
  ギリギリのケースとしてそういう場合もあるが、ほとんどは論理以外の要素でことは決まっているといってよい。その大きな要素が信用である。信用はデータとしての過去の実績が大きいが、それに劣らず大きいのが相手の印象である。いかにデータがよくても、相手が不誠実な印象を与える人物でムシが好かない時は、OKはしない。直観的な好悪の判断が優先される。
  データもさることながら会食での人間的(?)交流で最終的判断が決まるのは、日本ではよく知られているし、アメリカでもわたしの在米大使館での勤務経験からして例外的なことではない。組織内の決裁でも、上司が行う判断は「この部下はどこまで信頼できるか」という、情による判断である。よしとなれば、論理は後でつけるか、無視される。
  表向きは論理的・知的判断であるように装いながら、実は情による判断がごく一般的に行われてきて、それで何とか社会が動いてきたのは、たいていの場合情による判断が客観的にも正しかったということを示している。そうだとすると、人間は(というより、人間もほかの動物と同様)知よりも情になじむから、情による判断が一般的になるのは自然だということになる。ただ人間は同時に、知的存在だと考えることを好むから、表向きは論理を重んじることになる。
  まとめて言えば、情を豊かにし、情による判断をより確かなものにすることは、社会で生きる上で、知を蓄積するよりも大きな役割を果たすのである。そのことを自覚して、情の育成を大切にしたい。
  知は人類の進歩に重要な役割を果たす。それは誰もが認めている。ただ、知による進歩の功績者は専門家であるが、生徒に対する教育は専門家の養成を目的とするものではない。生きる力をつけるためである。
  では、社会で生きていく上で、どれだけの知識が必要か。もちろん分野によって異なるが、必要な知識は就職をめざす分野に応じて身に付けていけばよい。あらゆる職業及び専業主婦(夫)を通じ共通に要求される知識としては、釣銭を間違えない程度の算数の知識と、報道の見出しになっている漢字を読める程度の国語の知識だとわたしはかねて主張している(教育課程審議会でも主張した)。やや極端な言い方であるが、私は釣銭を間違えても立派に営業しているタクシー運転手や町のお寿司屋さんに何人も出会っている。
  どんな職業に就くにしてもそれに必要な知識はある。しかし、それはその職業に就く人が身に付ければよく、その職業に関係のない人が覚える必要はない。生きる力の観点から言えば、そういうことになる。
  もちろん人とよりよく交わって生きていくには教養があった方がよい。常識で判断する力を高めるにはいろいろな分野の基礎的知識を身に付けた方がより好ましいことは間違いない。したがって、小・中学校の知識科目の授業を否定するものではない。ただ留意すべきは、知識(論理を含む)の習得を強制すると、ある生徒についてはその生きる力を伸ばすことになるものの、ある生徒については学習嫌悪感や自己否定感を植え付けるマイナス効果が生じる(つまり教師が加害者になる)ということである。そしてそれは科目により、また生徒により、あるいは教え方によって異なるのである。
  「生きる力」を育成する上で、十分に留意を要するところである。

2 社会で生きる力をどう育成するか

  社会で生きるには基礎的に意欲が必要なこと、そして知識の付与は一般に考えられているほど必要ではなく、むしろ情(こころ)の豊かさを育成することが重要であることを述べた。
  そうなると、生活科や総合的な学習の時間の役割がいかに大きいかということになるのであるが、与えられた授業時間で求められる成果を生み出すことは不可能であろう。授業(体験の指導など)を通じて、日常的に生徒が生きる意欲を高め、情を豊かにする生き方を自らするよう指導するとともに、教師として社会全体で生きる力を育成する環境をつくるのに協力することが必要であろう。
  まず生きる意欲の育成であるが、身体の健全な成長が重要であることは言うまでもない。「早寝、早起き、朝ごはん」運動の実践が有効であろう。
  それと同等に重要なのが、自己肯定感あるいは自尊感情の育成である。これが傷つけられれば著しく生きる意欲が減殺され、これを失えば引きこもり、非行あるいは自殺に至る。
  偏差値が導入され、知識テスト競争が激化・低年齢化するにつれ、青少年による残虐な親殺しや無差別殺人が目立つようになっている。それも、親や教師に従順だったよい子が突如として非行にでている。高校・大学の進学率が高くなかった頃には見られなかったタイプである。これら比較的新しいタイプの少年非行に共通しているのは、自己肯定感の完全な喪失である。「自分は生きていても意味のない人間だ。生きることが空しい」という思いに心を占領され、自分や世間の消滅を願っている人間に、人の生命を大切にせよと説いてもまったく効果はない。
  そして恐ろしいのは、彼らの予備軍が幼稚園・保育園、小学校低学年にすらかなりいることである。かなり前から、自分のことを好きだと思わない子どもたちが結構いるのである(瀧井宏臣「こどもたちのライフハザード」岩波書店、2004年 参照)。
  教室で荒れる子は自分のことを好きだと思っていない。自分が好きでないのに、何事かに取り組む意欲は起きてこないだろう。
  そういう子どもたちに対する唯一の意欲回復策は、自己肯定感、自尊感情の育成である。
  そのためには、本人をほめることである。
  何でもいい。いいところが一つもない人間などいるはずがない。いいところを見つけてほめる。いいことをしたらほめる。そして人(親でも教師でも世の中の誰でもよい)がその子を大切に思っている、愛しいと思っていることを示す。ハグでよい。
  それによって、その子は自己肯定感を取り戻す。自己肯定感をもっていない子どもなどいるはずがない。すべての人間は生まれつき生存本能をもっている。自己の存在は全地球よりも大切なのである。その感覚を奪い去ったのは、親をはじめとする大人である。それも多くは善意で、しつけと称して子どもの行動の否定を重ねることにより奪い去っている。これを回復するのは大人の重い責任である。
  そこで、生活科から、親へ、社会へと自己肯定感を回復する対応を広げていきたい。それが「生きる力」の基礎となる指導である。授業では生徒たちのちょっとした気付きや発見、自分の意見の形成、発表やほかの生徒との共同、思いやり、積極性など子どもたちの態度を重点的に観察し、評価していくことが自己肯定感の育成につながる。事実の説明以上に大切なことであろう。
  なお自己肯定感の育成とわがままの容認とはまったく違う。望むままにわがままを許されてきた子どもは、自己肯定感が育っていない。人間としての成長が遅れている。自己肯定感は、存在を大切にしていることと合わせて、能力を示したり人に役立つことをしたりした時にその行動を認めることによって養われる。人から存在と能力をよしと評価される満足感がこれを育てるのである。ルールに反して欲するままに行動することを認めるのは、他者に対する依存心を増長させるだけである。
  情(豊かな心)の育成は、知識を教えるよりはるかに難しい。
  情が育つのは、まず自己肯定感があってからである。自分のことがどうでもいい時には、情(なさけ)をかける余地などない。
  情操教育は音や外界などに反応する自分の心を育てる教育であろうが、「生きる力」という目標からして重要な教育は、他人を理解し、共感し、協働する心の育成であろう。人は社会で生きる動物だからである。そういう共助の心(情)は、おそらく人類誕生の頃から教育されてきたと推定される。教えたのは“多産”、つまり子どもの数が平均10人という、人類の子づくりが生み出した家族の環境であろう。その中で、子どもたちは自然に助け合って生きることを学んだに違いない。それが自然界の中で人間が群を抜いて繁栄する基礎をつくったのであろう。
  しかし、近代社会となって人類は自らの智恵と意思とで、多産多死を少産少死に転換した。少死はよいことである。しかしその副作用として、多くの兄弟姉妹や親族、近所の子どもたちの中で協力し合い、助け合って生きるという体験学習をする機会が失われた。
  そのため現代の子どもたちは、人の思いが自分と違う場合、それをくみ取りそれをも生かさないと自分も楽しくないということを肌で感じる機会を失っている。
  だから、共助の心を育てる機会を人為的につくり出すことが喫緊(きっきん)の課題である。大人に仕切られ、ゲーム機で遊んでいたのでは、子どもの心の成長は、6歳から8歳のままで止まってしまう(岡田尊司「脳内汚染」文藝春秋、2005年参照)。
  幼稚園・保育園での保育や学童クラブの活動を、共助の心の育成という目的からしっかり構成することが求められるし、地域社会の責任も大きい。
  放課後の学校開放も大変いい試みで、これを異年齢の子どもたちどうしが自発的に遊び、その中で自然に学習して共助の心をはぐくむ場にしてほしい。地域の人々がそれを側面で支援する体制が全国にできてほしいと願って、わたしもはたらきかけをつづけている。
  わたしがNHKのテレビ番組「課外授業ようこそ先輩」で担当した出身小学校の6年生たちに聞いたところ、多くが「人間として成長したのはタテワリ」と答えた。タテワリというのは、高学年の児童が近隣の低学年の児童を、登下校や学級活動などの際に世話をする仕組みである。そこで共助の心が育ち、それを子どもたちは人間的に成長したと感じるのであろう。
  生活科は、言うまでもないが共助の心が育つ最高の場である。生徒たちに、仲間と協働することのすばらしさ、楽しさを実感させてあげてほしい。
  協働することによって友を理解し、友を愛するようになる。その心が、やがて人全体への愛に広がる。そこから、助け合い協調する力が育ち、あたたかく、生きやすい共助の社会が形成されていくのであろう。
  知識教育については行き過ぎている現状だと思うので触れないが、生きる力の視点からすれば、知識はその内容を理解しても、それが生活や仕事の場で出合う課題を考える時に活用されるものにならなければ意味がない。そして、生活や仕事の場では、各科目に分けられた知識を総合して用いることを求められるのが常態(じょうたい)である。このように知識を目前の現実的課題に応じて総合的に生かす学習を担当するのが生活科であるということを強調しておきたい。釈迦に説法の無礼をお詫びする。


(日本文教出版発行「生活&総合教室」 2010年1月31日発行・掲載)
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