更新日:2007年5月28日 |
戦争責任の理性的処理
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相次いで公にされた昭和天皇の側近たちの日記によって、昭和天皇がA級戦犯たちの靖国神社への合祀に、否定的なお気持ちを持っておられたことが確認された。
昭和天皇にとっては、日本国民の生命を幸せに全うさせることこそ、第一の使命であったに違いない。
しかし、戦争へと駆り立てる者たちがいた。大勢が開戦へと傾く中、昭和天皇は、国政を委ねた者たちの判断に誤りがないか、最小の犠牲で国民に最大の幸せ(勝利)をもたらすものかについて、深く悩まれたに違いない。そして、最後は、彼らが上申した開戦の判断に、祈る気持ちで賭けられたのであろう。
勢いのよかった彼らの判断は、浅はかであり、そのために数え切れない国民の命が失われ、生きのびた者たちも、敗戦による貧窮のどん底に突き落とされた。昭和天皇のいたたまれないお気持ちがいかばかりであったか、それは、沖縄への行幸を強く望んでおられたことにもあらわれている。
判断を誤らせた者たちの責任は、あまりにも重大である。陛下のお気持ちからすれば、誤らせた者たちが、そのため命を犠牲にさせられた兵士たちと一緒に祀られるというのは、きわめて不当なことであろう。昭和天皇は、富田元宮内庁長官メモによると、A級戦犯が合祀されたから「だから私はあれ以来参拝していない」と語られている。
奇妙なことに、侵略戦争の被害国である中国や韓国の施政者たちの立場が、陛下の感覚と一致している。彼らも、戦犯が合祀されている靖国神社に日本の総理が参拝することに反発している。しかし、総理が兵士の御霊を祀ることは肯定しているのである。
これは、被害者感情としては、自然なものではないであろう。現実に中国や韓国に侵攻してきたのは日本の兵士たちであり、自国民の命を奪い、略奪破壊をしたのも兵士たちである。被害者としては、憎く、あるいは恨みに思う対象は、直接の侵略者である兵士であり、これと一体になっている日本国民全体であろう。
未だに、中国あるいは韓国で、反日感情に火がつくと、自国にある日本人に攻撃が及ぶのは、そういう感情が根強く残っていることを示している。被害感情は、一般に、加害者の記憶あるいは贖罪の気持ちよりもはるかに深く、長く残るものである。日本人としては、侵略対象国の国民に被害感情が残っていることを責める資格はない。
そういう状況の中で、中国や韓国の施政者たちは、憎悪の対象を、国民全体でなく、戦争を遂行した最高幹部、つまりA級戦犯に絞り込んだ。これは、感情としては不自然ではあるが、そのように絞り込まず、いつまでも日本国民を恨んでいたのでは、中国、韓国と日本との建設的な関係を築くことが難しいからである。施政者たちは、未来の平和と発展のために、理性で、感情を抑える態度を取ったのである。
中国、韓国はじめ、アジア諸国との密接な関係なくして日本の安定も発展もない。中国、韓国の施政者たちの理性的な態度は、日本の国益にとっても、歓迎すべきものがある。悪いのは最高幹部だけだという、日本からは言い出せないことを被害者の方から言ってくれているのである。そして、それが昭和天皇のご認識でもあった。
私たちも、日本の将来のために、理性を取るべきであろう。
犠牲となった兵士たちの遺族が、「彼らは聖戦のために身を捧げた」と主張したい気持ちはわかる。それだけに、国民をリードする政治家たちが、日本の未来のために、理性ある態度を取らなければならない。その逆の態度を取る政治家が増えていることを、心から憂えるものである。 |
(電気新聞「ウェーブ」2007年5月18日掲載) |
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