更新日:2009年7月8日 |
裁判への市民参加
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5月21日、裁判員制度がスタートした。同日以降に起訴された一定の重大事件の審理に適用されるから、この夏には何件かの裁判員裁判が実施されるであろう。
選ばれた人は、市民の代表として、存分に感じるところを述べてほしい。裁判員の役割の第一は、有罪にして間違いないかを判断することである。数は少ないが、被告人が否認する事件に当たった時は、検事が提出する証拠が間違いないかを冷静な目でじっくり確かめるのがその役目である。職業裁判官は、それまでにほとんどの事件を有罪にしてきた経験から、無意識のうちに、検事側の主張や証拠を信じやすくなっている。市民として社会生活をして来る中で身に付けた常識から判断しても大丈夫か。少しでも疑問があれば、必ず発言して、納得できるまで証拠を確認してほしい。
裁判では、絶対に冤罪があってはならない。刑が重い重大事件は、特にそうである。だから、常識で判断して納得できないような疑いがなお残っていれば、犯人である可能性が高い場合でも、無罪にしなければならない。この大切なルールをしっかり守るためにこそ裁判員に選ばれたのである。その自覚を持つことが基本となる。
被告人や弁護人が有罪を争わず、証拠も揃っている事件が多数であるが、そういう事件でも、適切な量刑を決めるという大きな役割がある。
量刑の判断とは、被告人が犯した罪について、どれだけの責任を取らせるかを決めることである。
その判断要素については2つの考え方があって、1つは被害者と社会の応報感情、つまり、どれだけ被害者と社会が怒っているかを基準とするという考え方である。その考え方からすれば、被害の大きさ、犯行の悪質さ、犯行の動機(利己性)、計画性などが大きな要素になる。もう1つの考え方は、犯人の更生の可能性、つまり、どれだけの刑で本人が立ち直るかを基準とするというものである。この考え方からすると、犯行の動機のほか、反省の程度や前科の内容、生育環境や家庭環境などが判断要素となる。
これまでの裁判では、前の考え方(応報刑)を基礎とし、これに後の考え方(教育刑)を加えて判断してきたと言えるが、計算方程式はもちろん、ごく大雑把な数値基準もなく、考え方(理論)も確定したものではない。要するに実務のカンに委ねられ、その中でその都度下された量刑判断が蓄積されて、何となく実務の相場のようなものが形成されてきているに過ぎないのである。それが、法律のプロだけでやってきた量刑判断の現状だからこそ、裁判員の市民感覚による判断が求められる。量刑の正当性を基礎づける現実的な方法は、それ以外にない。
だから、裁判員は、裁判官のリードや先例に縛られず、大胆かつ正直に、市民として感じるところを述べることが重要である。なにしろ議論の決め手となる理論も尺度もないのであるから、市民感覚に基づく意見が、それぞれの人の視点から提出され、そこで多角的な視点から総合的に判断すると言う議論の基礎が形成され、もう一度各裁判員が広い視点に立ってみて、どれが市民社会から見ても被告人の更生の立場から見ても適切と判断されるかを決める。そういう過程を経て、量刑は、社会にも被告人にも受け入れるべきものとなっていく。
事実認定も量刑の決定も、プロでない市民が十分できる常識的判断であり、その判断があるからこそ裁判員制度は、その社会的意義が極めて大きい。
徴兵制のない民主国家日本で、本人の意思に反して与えられる苦痛の最大のものは、刑罰である。万が一にもそれが不正不当なものとならないよう、市民の積極的参加が求められている。
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(電気新聞「ウェーブ」2009年6月18日掲載)
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