「ストーカー」をどう思いますか。自分はそんなものにはならないと思っているでしょ? でも、どういう根拠で、そう思うのですか。
私も、中学3年の頃、同級生の女の子を好きでたまらなくなり、夜こっそりその子の家まで出かけ、「ひょっとして家から出てくるかもしれない」と胸をドキドキさせながら、家の前を走り抜けたことを覚えています。会いたくてじっとしていられないくせに、会うのがこわくて恥ずかしい、何とも甘酸っぱい青春の記憶です。
○ 「自分は愛されて当然」なんて
私は、人が人を愛するということは、素晴らしいことだと思います。それがあるから、人類は発展してきたのです。
そして、人が人を愛するということは、相手をすてきな人だと尊敬し、誰よりも幸せになってほしいと願い、自分もそれに役立ちたいと願うことだと思うのです。間違っているでしょうか。
あのようにすてきな人が、自分のような者を愛してくれるはずはないと思う。そう思い込むのが愛なのだから、本人は悩みます。相手を欲しいという欲求と、自分を卑下する心との葛藤(かっとう)で、食欲もなくすほどに苦しむのです。
それが、昔から文学作品や映画に描かれてきた愛ですし、私や友人たちの愛でもありました。
それが愛の本質だとすると、人がなぜストーカーになるのか、わからなくなります。いったん愛し合う関係になった後、ふられてストーカーになるというのは、偏った所有欲の表れということでわかる気もするのですが、一度も愛されていないのに、「自分を愛するのは当たり前だ」という態度で、いやがる相手につきまとうというのは、どういう心情なのでしょうか。
○ いつも相手を思いやる訓練を
相手の心を重んじるという気持ちが全くないというほかありません。ひょっとすると、相手が心を持っているということすら理解していない、自己中(ジコチュー)の塊のような人間なのでしょう。だから、欲しいとなったら「物」をほしがるような態度になってしまうのでしょう。
子どもの頃から思い切りワガママを認められ、相手の気持ちを思う友だちづきあいもしてこなかった人は、ストーカーになるおそれがあります。
そうはなりたくないですね。いつも相手を思いやる人になれるよう、自分で訓練を続けましょう。
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