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提言 福祉・NPO・ボランティア
更新日:2010年11月24日
それがあるから止められない

 よたよたと、老女が出てくる。
 点滴の液体をぶらさげる器具にすがるようにして、これを押しながらこちらに来る。器具にぶらさげてあるのは、点滴の薬ではなくて、彼女の尿の袋である。
 老女と眼が合う。彼女は、はっと眼を見開き、私をみつめる。
 美しい、純粋な眼である。「いくつになっても、心の美しい人の眼は、美しい」私は、感動して、眼であいさつする。
 みるみる、彼女の大きな眼がうるみ、涙の雫がこぼれ落ちる。
 「あらあら、どうしちゃったの? なんで泣くの?」小さな宅老所を経営している私の仲間が驚いて聞く。私も、ドキドキする。
 「うれしいから」
 かすれた声が、私にも、やっと聞きとれる。
 「うれしいから泣いてるの? 堀田先生に会えたから?」
 老女は、涙の眼でじっと私を見る。堀田先生ということは、わからないらしい。
 「やさしいから」
 老女が、かすれた声で、やっと言う。
 「やさしい?」私は驚く。今、会ったばかりで、言葉も交わしていない。
 「そう? じゃ、堀田先生に握手してもらいなさい」
 老女は、急に恥ずかし気に顔をふせながら、一歩、私の方に寄る。私は、老女の尿の袋をはずさないように気を付けながら、彼女の肩を抱く。老女は、私の胸に顔を埋めて、泣く。肩をふるわせながら。
 女性経営者が、私にうなずく。その顔は「そのまましばらくじっとしてるのよ」と私に命じている。
 私の胸に、ほっとする充足感が満ちていく。
 こういう時間が欲しくて、私はボランティアをやっているのだと、身体で納得する。
 もっとも私のボランティアは、現場でやるものではなく、仕掛けるボランティアである。中間支援団体などと分類されている。
 だから、感謝されたり感動して抱き合ったりという機会は、少ない。いわば、ボランティアの愉しみ、ごほうびには、あまりありつけないのである。
 それかあらぬか、私は、この6月1日からとんでもない奇策に挑戦しはじめた。
 山手線一周辻立ち名刺両面大作戦である。
 東京・山手線の各駅からどっと降りて来るサラリーマンを、ボランティア活動に引き込もうという、ムチャな目標である。
 私も検事を辞めて19年間、日本中にボランティアを訴えてきた。自分たちで、あたたかい助け合いの社会をつくり出そうという思いである。退職者層も、専業主婦層も、学生、生徒たちも、動き出した。ただ一つ、動かないのがサラリーマンである。
 しかし、働く人々の参加を欠いたままでは、家庭も地域社会も、本当にあったかいものにはならない。偏ってしまう。
 だから、サラリーマンのボランティア体験のイベントを、6年にわたり、全国各地で開催した。 経営者層にも働きかけた。しかし、動かない。
 そこで、昨年から始めた新しい作戦が、名刺両面大作戦である。名刺の裏に、やっている地域の活動や、会員となって応援しているボランティア団体、NPO団体などの名前を印刷してもらおうというわけである。やってみると、名刺の裏から思いがけない人柄が表れて、会話もはずむし、ボランティア活動の面白さも広がる。「よし、山手線の各駅で辻立ちをして名刺両面大作戦を広めよう」。
 私の奇策に、わがさわやか福祉財団の強者どもも、一瞬腰が引けたが、6月1日、新橋駅で試行すると、毎日10人くらいがボランティアで参加してくれる。
 一駅2週間、朝7時45分から1時間、マイクで訴え、チラシを配る重労働を続け、浜松町、田町、品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿と進んできた。この調子なら、来年8月、振り出しの新橋に戻るまで、連日早朝の辻立ちを完遂することができるだろう。
 それが「愉しみ」かって? 愉しみじゃない。苦行である。猛暑だからではない。立ちっぱなしだからでもない。
 心の苦行である。切なる呼びかけを完全に無視して、黙々と通り過ぎていく羊のような大群。心がまったく通わない人々がこれだけ世の中にいる! 人への信頼感が、無惨に打ち砕かれる。
 だから、何十人かに一人、こちらに寄って来て「頑張って下さい。応援しています」などと言われると、泣きそうになる。「わかりました。私の事業所でも、みんなにやらせます」などという紳士が現れると、思い切り抱きたい衝動で、顔がクシャクシャになる。
 苦行は、それを償って余りある愉しみを秘めている。
 それがあるから、ボランティアが止められない。

(文藝春秋『嗜み』2010年10月20日発行掲載「私の愉しみ」)
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