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提言 生き方・その他
更新日:2006年2月10日

人智の卑小なるを自覚して

  人の身体構造の絶妙さは、はるかに人智を超えている。
  生き物たちの、環境に適応して生きる知恵と能力は、どこからくるのであろうか。そして、その生物たちを一瞬にして絶滅させる自然の力の強大さ。
  あるいは、宇宙の、想像を絶する無限性。
  きわめて限られた能力と生命しか与えられていない人間が、己を超越して視覚にとらえられない存在に畏敬の念を抱き、帰依して信仰するのは、自然な感情であろう。
  私も、「空」という言葉で適切に表現される無限の存在に驚嘆しているが、特定の神や仏は信仰していない。しかし、人々が、その畏敬の念を、神社仏閣など、さまざまな形に表し、教義をつくり出すいとなみには強い関心を持っており、だから、好んで神社仏閣や各種の造形物を拝観している。どんな造形物にも、長年にわたる人の思いが凝縮しており、心を打たれるものがある。
  そんな次第で、私の参拝は、宗教・宗派の差にこだわらず、儀式にも時期にもとらわれない自分勝手なものであるが、高麗神社(埼玉県日高市)にだけは、何度か儀式にのっとってお参りし、おはらいもしてもらった。東京地検特捜部に所属していた期間のお正月である。
  この神社は武運を司るというので、当時、特捜部では、捜査の成功を祈る習わしがあった。武運を司る神が多い中で、なぜ高麗神社なのかは知らないが、事件摘発の成否には、疑いもなく、運がかかわる。いかに周到に準備しようと、想像外の不運で捜査がしくじることは珍しくない。だから、特捜部検事たちが好運を祈るのは当然であり、それを神社礼拝によって表したくなるのも、自然である。私は、彼らと思いを分かち合うとともに、不運な事態になっても動じない気持ちを培うために、参拝したのである。人智の卑小なることを自覚して事に臨むのも、人智であろう。

朝日新聞社「論座」私と参拝/2006年2月号掲載
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