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提言 生き方・その他
更新日:2006年1月10日

余らせることは不幸である

 東京都庁に行くたびに、もったいないと思う。公僕(パブリック・サーバント)が仕事をするのに、あんな建物や環境はいらない。
  巨額を投入して建造した不要物は、都市にも地方にも目に余るほどあって、増税の提案に拒否反応を引き起こさせる元凶となっている。建造の責任者は、私財のすべてをもって納税者に償うべきであろう。「建設国債」などというインチキな概念を考え出して赤字を増やした財政担当者も同罪である。
  話は変わるが、私と同年輩の人には、「もったいない」と言って、出された食べ物をすべて平らげる人が少なくない。私もモノのない時代に育って残すことを禁じられたが、常に食事は足りなくて、無理をして食べた覚えがない。長じてからは、もともと食が細いので、はじめから量を減らしてもらい、それでも腹八分目になった時は、残すようにしている。無理して食べて身体を壊した時は、余計な医療費などの負担がかかり、はるかにもったいないからである。
  ただ、アフリカなどで飢えている子どもたちを思うと、食事を残すのは心が痛む。はじめから原材料を少なめに見込んで、余る物を必要なところに供給する仕組みを、世界レベルで考案する必要がある。
  そういう目でみれば、周りには要らないモノがあふれている。
  特捜部検事時代には、お金持ちの家をずいぶんガサ入れ(捜索押収)したが、「こんなに要らない部屋を造って使わない高価な家具を置いて、トイレのドアの把手まで金製にして、何しとるんや」と思ったものである。本人はそれが自慢なのだから、哀れというほかない。
  モノは、人のためにあるのだから、必要なものが最小限あれば、それで足りる。余らせて死ねば、相続争いで子どもたちを不幸にするだけだろう。

(コラム特集「もったいない!」/講談社「月刊現代」2006年2月号掲載)
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 [日付は更新日]
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