更新日:2006年10月5日 |
新米教師のひと言 |
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私が通った京都市立堀川高校は、下町の高校であった。最近は、公立の進学校として売り出し中であるが、昔は厳格な学区制の下、小さな商家の子どもたちが集まっていたから、校風も自然にまちの雰囲気を反映して、自由でおおらかなところがあった。
残念ながら、「教育の力!」というような光を発する教師に遭遇することはできなかったが、生徒会主催の文化活動はさかんで、私の人格形成は、自発的な文化活動に負うところが大きいように思う。
1年生の時、演劇コンクールに参加すべくホッタツトム脚本・演出・主演の「天国喜劇」を放課後ワイワイ言いながらリハーサルしていたら、珍しく私たち7組担任の塙(はなわ)浩先生がふらりと現れた。しばらく私たちを見ていたがひと言、
「いつも群れておって、まだ、自我が発達しとらんのう」とのたもうて、すっと消えてしまった。
私の人生にもっとも強い教育的効果を与えた教師の言葉が、このひと言である。
塙先生は、京大大学院生を兼ねている若い教師で、「社会」を教えていた。
クラスの担任としても、「社会」の担当教師としても実に淡白で、「お前らはお前らで勝手にやりたいことをやれ。わしはわしで、勉強してきたことをしゃべるから」という態度であった。
その授業ぶりは、ほかの教師と格段に違っていて、すでに決められている知識を教えるというのではなく、自分で設定した問題について、その答を模索しながらしゃべっているという具合であった。
生徒の方をまるで見ないで、視線を後方の壁と天井の境目あたりに固定し、時にウッとつまって何分か考え込み、やっと次の言葉が出て来るといった授業である。にもかかわらず、生徒は静かであった。自由奔放というか、要するに行儀の悪い生徒たちが、おとなしくしているというのは不思議な現象であったが、私たちの気分を説明すれば、新米教師が社会の難問を私たちに提示して、その答を求めて一生懸命考えている姿にまず共感したということがある。私たちを一人前扱いしているところに好感を持ち、こちらも対等にふるまわなくてはいけないと思ったのかもしれない。
そして、何を模索しているのかよくわからないが、大体「社会」なんて正解が一つということはありえないし、私たちの前で格好をつけず真剣に考え込む姿が、こっけいであると共に学者らしくて、静かにしていてあげなくてはならないと思っていたふしがある。
クラス担任としての塙先生は、クラスにまるで関心がないように思えた。クラスは文化行事にもスポーツ行事にも活発に参加したが、先生は口も出さなければ見にも来なかった。賞を取っても、「そうか」と言うだけである。だから演劇の練習を見に来たのは珍しい現象で、ひそかに反応をうかがっていたら、あのひと言が来たのだった。
折しも自我にめざめる思春期まっさかりの頃だったから、あのひと言はこたえた。「私たちは、まだ個人としてめざめていないのだろうか。まだ未熟なガキなのか」その疑問にとらわれ、心揺れながらも、卒業まで群れたままだった。
当時は実存主義が大流行で、実存を突き詰めれば孤に至ると悟り、塙先生が言ったのはそういうことかと思った頃には、彼はさっさと神戸大学法学部に移り、そこで西洋法制史の研究をしているということであった。
私の方は、京大法学部に進み、そこで、実存と社会連帯の間をさまよっていた。
あれから半世紀、私は、確立した個人(自我)による共生(群れ)という考えの下、共助の発展をうながす活動をしている。一応は塙先生のひと言によって生じた疑問に答を出したつもりである。
その塙先生から、突然手紙と論文の抜き刷りを頂戴したのが、数年前であった。50年の歳月を経てなお私を覚えていて下さったことに感動しながら、フランス法制史などについての論文を読み、高校時代に戻った気がした。中身は高尚すぎてよくわからないのだが、先生が一生懸命取り組んでおられることは伝わってくる。驚かされたのは手紙で、「自分の担当したクラスから2人の法律家が出たことを誇りに思う」とあった。あの塙先生が、クラスの生徒に関心を持っておられたとわかったのも驚きであるが、法律家などという世俗的なものを評価されるとは、どうされたのだろうと首をかしげた。
堀川高校1年7組のクラス会を開いて、塙先生をお招きしていろいろうかがいたいと考えながら、目先の繁忙にとらわれ、思いを果たさぬままに、先生は亡くなられてしまった。
だから、「先生は自立と共生との関係をどうお考えですか」という問いは、私の中に残されたままになっている。 |
(文藝春秋特別版2006年11月臨時増刊号
「教育の力を取り戻す」“忘れ得ぬ師の思い出”掲載) |
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