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提言 教育
更新日:2007年6月5日
人間力を伸ばす教育
・・・大人が管理しすぎる日本の子ども・・・
  日本の子どもたちはおとなしすぎると思う。
  数年前だが、ボランティア活動を推奨する総務庁のテレビコマーシャルに、いろいろな国の子どもたちと一緒に出演した。小学校低学年の子どもたちは、西欧の子もアジア・アフリカの子も元気いっぱいで、少しでも撮影の間があくと、とびまわり、じゃれあう。その中で、日本人の子3人だけが、親に言われたとおり、じっとおとなしく待っている。異様であった。
  日本の子どもたちの自己主張の弱さは、海外の教育経験者が実感するところである。子どもたちに限らず、大人たちも、自分の意見を述べ、これに基づいて討議するのが苦手な人が多い。
  和の社会と誇る人もいるが、自己を殺した和、あるいは、自己の意見を形成する能力のない人の従順が生み出す和は、もはや力にならない。
  先進文化国は、多様な価値観の人が多様な発想をし、それぞれが個性と能力を発揮してさまざまな価値と成果を生み出している。日本も経済的にはそのレベルに達しているのに、教育がこれに追いついていない。少子化時代、すべての人のそれぞれに異なる能力を存分に伸ばさなければ、日本社会は衰弱していく。
  子どもたちを大人が管理しすぎるのが、子どもたちの活力を奪っている主な原因であろう。
  もちろん、子どもが自分の生命と身体を守るために覚えなくてはならないルール、および、その年齢に応じて人と共存していくのに必要なルールは、しつけなければならない。しかし、多くの子どもたちは、必要な範囲をはるかに超えて意味のわからないルールを大人たちから強制されている。
  意味がわからなくても、じっとおとなしくしておれという命令。
  興味も持てず意味もわからないのに、覚え込めという命令。
  興味があるのに、頭からダメという禁止。
  親や学校の勝手な都合や思い込みであることがミエミエの命令や禁止。
  そういう命令や禁止に縛られ、子どもたちの知識欲や新しいことに挑戦する気力、自ら考え、判断する能力や自己責任感がその芽を摘まれてしまう。主張がぴしゃりと押さえ込まれるから、表現力も思考力もつかない。
 
・・・のびのびと育つ力を支える・・・
  そこへ持ってきて、詰め込みの知識教育である。確かに、教科書には子どもたちに考えさせようという工夫がいろいろと現れてはいるが、そのレベルに達しない子どもにとっては、詰め込み以外の何ものでもない。入試でいくら考える問題を出しても、たちまち塾がパターンを覚えこませてこれに対応してしまうように、考えずに済まそうという者は、覚えるか諦めるという対応をするのである。
  知識教育のおそろしさは、入試によって学校間に知識詰め込み度(入試の時に暗記するだけで、ほとんどは身に付いた学力になっていない)による社会的順位をつけるところにある。学校は、行政や保護者からのプレッシャーにより、入試向けの知識詰め込み教育を行わざるを得ないという状況が続いているのである。
  そのような状況のもと、進学する子もしない子も、知識詰め込み度というたった1つの基準で、社会、特に仲間うちで順位を付けられている。それは必然的に、ごく一握りの勝者にはおごりという人間性の歪みを、また、大多数の敗者には、劣等感をもたらす。劣等感は、フラストレーション、生きる意欲の喪失、他者への共感の喪失、疎外感による反社会的体質、主体性の欠如など、大きなマイナスを生み出している。子どもたちのいわれのないいじめも、ほとんどが、フラストレーションの発露であろう。
  要するに、大人が子どもを管理しすぎて人間性を抑圧し、また、知識教育による画一的な評価によって生きる意欲を奪っている。これが日本の教育の根源的な問題である。
  子どもたちののびのびと育つ力を支えることこそが必要である。
  人は、他の動物と同じく、生存本能(自助の意欲)を持っているし、また、社会的動物として、助け合って生きる本能(共助の意欲)も身につけている。
  社会の仕組みは、自助・共助・公助の3つに分類でき、また、人の生き方は、自助と共助に分類できるが、この自助と共助の意欲および能力をバランスよく身につけた人が社会で生きる能力を、人間力と呼ぶことができる。
  人はそういう人間力を伸ばす本能を授かっているのであるから、子どもたちがこれを伸ばす機会を適切につくることが、もっとも効率的な教育の方法だということになる。
 
・・・少子化時代の人間性の育成・・・
  子どもたちのこの能力を伸ばすのは、子どもたち同士の遊びや協同作業である。子どもたちは、そのなかで、自分のしたいことは仲間の刺激によって啓発されること、したいことをするには主張しなければならないこと、しかし、仲間と協力しないと楽しくやれないこと、だから、仲間の気持ちをわかり、重んじなければならないこと、やさしくすれば、なかよしになれて快いこと、仲間との協同作業には役割分担が必要で、それぞれの得意わざを生かすとうまくいくこと、わがままばかりでは仲間はずれにされ、さびしいことなど、自助と共助の生き方を体験し、自らそのあり方を考えて身につけていく。
  それらの能力は、実は社会人としても最も求められる能力であって、就職試験では、それらの能力をどれだけ有するかをテストされる。学校で教え込む知識などは、聞かれてもほんの一部に過ぎない。
  そして、それらの能力は、サラリーマンの少子家庭で親が子に身につけさせることは、ほとんど不可能といってよい。家庭での協同作業がきわめて少ないし、親と子が遊んでも対等でないため、子は問題に主体的に取り組み、自ら課題を解決するという体験をしないからである。
  少子化時代の人間性の育成には、子ども同士が交わり、子どもたちだけで課題に立ち向かう機会をつくることが必要不可欠である。親の自覚が求められるところであって、子育ち支援NPOによる親教育が重要である。一方、学校では、とりわけ総合的な学習の時間(生活科を含む)を、その趣旨どおりに実施することが有効である。とくに、北欧の教育から学んでほしい。
  また、知識教育の偏重を排し、これによる画一的評価を改めるには、学校教育のあり方や入試のあり方を改めるとともに、社会における就業のあり方や能力評価のあり方などを抜本的に改めなければならない。
  その方向性については、本年1月24日、政府の教育再生会議の第一次報告書発表と同じ日に、私たち教育再生民間会議(小山内美江子、嶋野道弘、牟田悌三各氏と私)が発表した「子どもたちをのびのびと育てるための『教育再生民間会議』提言」を見てほしい。
http://www.sawayakazaidan.or.jp/news/2007/20070124_kyouiku.html
  そこでは冒頭に、「人口減少時代の教育は、できる人の選別・育成ではなく、すべての人がそれぞれに持つ多様な能力を、適性に応じて伸ばすことを目的に行う」とうたっている。
  それこそが本人と家族と社会とを幸せにする基本であろう。
(教育開発研究所「教職研修」2007.5掲載)
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 [日付は更新日]
2007年2月20日 つめこみ教育がつくり出す人間
2007年2月9日 教育再生―子どもの人間力育成を
2007年1月24日 子どもがのびのびと育つ教育を
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