人生、愉しみはいろいろあるが、一つに絞ればやっぱり酒だなぁと思う、平凡ながら。
うちは先祖代々、京都にあって堺屋利兵衛という屋号の酒造屋だったが、祖父の十一代目利兵衛が四十過ぎてから祇園の芸者に入れあげ、家屋敷を売り払った挙げ句、私が生まれる前に死んでしまった。だから私は、子どものころから「若いうちに遊びなはれや。四十過ぎてからの遊びは身上(しんしょう)つぶすから」と親族に言われて育った。にもかかわらず、酒を飲み始めたのは遅くて、高校一年になってからである。後に高校教師になる叔父が仕込んでくれた。
大学に入って自分で稼ぐようになってからは、アルバイト代は、授業料のほかはほとんど酒代に消えた。
百万辺にある大学近くの漬け物屋で、一本十五円の一夜漬け大根を買ってそのままかじりながら、実存主義とマルクス主義の関係を論じ、上賀茂のはずれの掘っ立て小屋でほとんど韓国語しか話せないおやじが焼く、得体の知れないホルモンをパクつきながら、日雇いのおっさんらと社会の不合理や女性の魅力を語り合って、夜を過ごした。
あんまり遊んでばかりなので、心配した父が、上賀茂中学校の宿直のアルバイトを探してきたが、宿直室に友だちを集め、ドブロクを飲んで阿波踊りをしているところをPTA会長に見つかり、クビになった。
そういう酒の上の失敗は数々あるが、もちろん、得たものの方が大きい。友と深く語り、社会のいろんな層の人たちと知り合って、世の中の生き方を学んだ。小説や映画で学ぶより、ずっと生々しく、人間臭かった。
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検事になってからも、酒を欠かす日はなかった。大阪の特捜部時代は拘置所通いが続いた。拘置所ではさすがに酒は飲めず、被疑者と同じメシを食べて深夜まで取り調べる。午前様で帰宅し、生まれて間もない息子を風呂に入れたあと、燗酒をコップ一杯あおってコトンと寝る。ただ一つの愉しみであった。
警察や国税査察官たちと一緒に事件をやったあとの打上げ酒は、捜査第一線の刑事や査察官たちとの心の交流を深める大切な役割を果たしたし、ワシントンDCで外交官を務めた時は、アメリカの司法省幹部たちを自宅に招待しては日本酒を振る舞い、幹部夫人たちを燗酒ファンにした。寒い地域には燗酒が合うのである。
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若い頃は肝臓を酷使して酒の量を競い合っていたが、五十代に入るとにわかに酒量が落ち、翌日にこたえる度合いが増えた。
その頃七十代に入っていた母は、酒をたしなむようになっていたが、日本酒ならおちょこに三杯、ビールなら一番小さい一三五ミリリットル缶を一つ、ワインならグラス半分を、いかにもおいしそうに飲んで、この上なく満足そうに微笑む。
「あぁ、お酒はこのように飲むのだ」と、私は母から学んだ。
以来、二次会を避け、深酒を慎むようになった。別に、苦労したわけではない。酒がある量を超えると、身体が自然に欲しがらなくなったのである。
身体は不思議なもので、いい友といい酒を飲んでいる時は、許容量を三倍ほどに上げてくれる。心身の状態がよろしくない時は、ビールを一口含んだだけで、「止めろ」という。喉が通してくれないのである。
やりたいことを思う存分にやっているわがままを、精一杯支えてくれる私の身体と心には、いい酒といい友を提供して、いつまでも頑張ってもらおうと目論んでいる。
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