今ある生命は貴重なもの
もの思う思春期に入る前、すでに多くの死に出合っている。
生母朝子は、私が四歳の時、二十九歳で死んだ。父に叱られた私を、しっかり抱きしめてくれた母。突然軍馬に鼻を寄せられ、仰天した私を両手で受け止めてくれた母。記憶に残っているのは母のぬくもりと、あとは棺の中の美しい死に顔である。
幼い頃しきりに遊んでくれた朝子の弟、良敏は、軍に召され、海の藻くずと消えた。
B29の爆撃で殺された人たちばかりでなく、戦後は、栄養失調でまわりの人たちが死んだ。寄っていくといつもにっこりと受け入れてくれた佝僂(くる)病のコマちゃんは、小学三年で亡くなった。
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別れは、哀しい。
心を分かち合う度合いが大きい人ほど、別れの哀しみも大きい。
人の運命(さだめ)のはかなさを身にしみて知ると、今ある自分の生命がこの上なく貴重なものだという感覚が自然に生まれる。それと共に、心を通わすことのできる人とのつながりの大切さが、実感としてわかってくる。
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私は、思春期の頃から、生きている時間を少しでも有効に使いたいと願うようになっていた。
読んだ本から得るものがないと、読むのに要した時間を惜しみ、その本を選んだ自分を苦々しく思った。
授業が無内容だと、怠惰な教師に憤りを感じた。「許されない時間泥棒」は、少なくなかった。
いつ失われるかわからない自分の時間を、自分の思いを生かす快さ、あるいは自分を高める充足感を得るために使おうと努力した。男女にこだわらず、つき合ってそういう快さが得られる人を友とした。
思いが生かされる喜び
法律家になる道を選んだのは、いろいろな社会といろいろな人とを知りたいという、私の強い欲求を満たしたかったからである。
そして、検事の道を選んだのは、汚職を摘発したいと思ったからである。闇に隠れた権力者の犯罪を掘り出すプロセスは、私の挑戦意欲をかき立てたし、それを白日の下にさらすことができた時は、社会の浄化にいささかなりとも貢献できたという満足感があった。
だから、検察の現場で仕事をしている時は、一般の刑事事件を扱っている時も、特捜部で汚職事件を追及している時も、いきいきとしていた。自分の思いが生かされる喜びに満ちた、輝かしい日々の連続であった。
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検事という仕事は、自分を生かし、高めるための挑戦を常に行うことのできる、最高のものであったが、同時に、扱った事件の内容は、私に重い宿題をもたらした。
特に、法務省刑事局に勤務した間に扱った十数件の死刑起案は、生きている限りぬぐいきれない、重い罪の意識を抱え込む原因となった。担当検事として死刑の執行を相当と判断し、その旨の起案をすると、書類が法務大臣に上る。大臣が印を押せば、即、死刑執行である。
私は、何とか恩赦にする事情がないかと記録を調べるのだが、見つからない。彼の親がもう少し彼に優しかったら、あるいは、教師が彼の長所を認めていたら、あるいは、世間が彼を差別しなかったら、彼はここまで残虐な殺人を重ねることはなかっただろうと思うのだが、それは無惨に奪った複数の生命を償う理由にはならない。やるせない思いで死刑起案をしながら、すべての人の生きる意欲をありのままに認め、素直に人を伸ばす社会の実現を願うほかなかった。
死刑にしない犯罪も、程度の差はあれ、社会の側に何らかの問題があって生じている。人を歪(ゆが)めない社会、すべての人を受け入れ、すべての人の思いを生かす社会にしなければならない。私は、そういう重い宿題を背負ってしまった。
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五十代に入ると、私は検察の現場で自ら捜査をするポストに就く望みがなくなった。それで、管理職としてさらに出世していく道を捨て、ボランティアの現場に飛び込むことにした。日本を、もっと人に優しい、心のふれあい、助け合いのある社会にするのに、少しでも役立つことができれば、かつて検察の現場で働いていた時と同じように、充実感をもって日々を過ごすことができるだろうと考えたからである。
あれから一五年、私の日々は、期待以上である。特に、新しく得た仲間たちが素晴らしい。
寿命が延びて、七十をすぎてもなお夢を追う生き方ができるとは、戦中戦後の頃を考えれば、それこそ夢のようである。
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