更新日:2010年7月9日 |
エヴィデンスと論理 |
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教育も、例に洩れず、その効果を見てやり方の善し悪しを決めるという考え方になっている。
しかし、ある教育が、教育の最終目標である「人格の完成」(教育基本法第一条)に向けてどれだけの効果を上げたかを、証拠に基づいて評価するのは難しい。人格の完成に教育がどれだけ寄与するかすら分からないからである。
とはいえ、自戒を込めていうのであるが、教育については誰もが発言できるから、無責任な言説が横行する。だから、エヴィデンスベーストと強調されるのはよく分かる。これについて、感じることを2つ述べる。
1つは、エヴィデンスとして最も必要なのは、教育の対象者による評価ではないかということである。文部科学省の審議会とか委員会などに出て思うのは、配られる分厚い資料の中に、児童生徒たちの反応を調べたものがほとんどないということである。
肝心の児童生徒らはどう感じ、受け止め、評価しているのだろうか、正直なところを知りたいと思うのだが、それがない。
主役の評価抜きで議論しても、危ういでしょうと思うが、教える側、育てる側の評価をもとに、ことは決まっていく。
小学校の高学年になればもちろん、低学年でも、ハッと驚くほどポイントを押さえた評価を持っている。その能力を正しく評価するところから始めてはいかがであろう。
2つは、論理の活用である。
エヴィデンスを得られる範囲は限られており、判断する事項をその範囲内に止めておくと、大きな問題に対応できない。
例えばゆとり教育の評価であるが、ひどく悪者にされていて、若者のやる気がないのも、ストレス耐性が低いのも、コミュニケーションが苦手なのも、自分を知らないのも、全部ゆとり教育の悪影響だなどという論説も見られる。
そういう若者は昔からいたし、ゆとり教育を受けた若者にもそれと正反対の前向きな人が結構いる。それが私の実感だが、データはない。
しかし、ゆとり教育からそのような影響が生じることは、論理的に、あり得ない。あるとすれば、ゆとり教育が生かされなかったことが原因である。
それくらいのことは、単純な論理によって肯定することができよう。
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(教育新聞コラム「円卓」2010年7月5日掲載)
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