更新日:2009年11月25日 |
ヒトの能力の活用
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鳩山政権は、「人間のための経済」に変えるという。具体策はこれからながら、当然の方向転換である。
その転換とあわせて、「人と人が支え合い、役に立ち合う新しい公共」の実現を側面支援するという。政権の理念として新鮮であり、それこそ市民が主役となって創り出していきたいと思う。
市民の活動を側面支援するに当たり、政策を担う人々に是非持ってほしい視点が「社会資源としてのヒトの能力の活用」である。
ヒトの能力の活用は、これまで経営者と公共機関に任されてきた。要するに、企業(市場経済)か公共機関で働くというのが人の能力を生かすということであり、家庭や近隣地域において行う人に役立つ行為は、プライベートなものとして、政策担当者の視野に入って来なかった。近年になって、財政に行き詰った地方自治体が「行政の補完」としてボランティア活動やNPO活動などを取り込むようになったが、その程度である。鳩山政権や民主党がこれらの活動の支援を政策の大きな柱に掲げたのは政策の進歩である。しかしながら、せっかく進むなら従来の枠を越え新しい段階に進んでほしい。
その視点が「社会資源としてのヒトの能力活用」である。
ヒトは実にさまざまな「人に役立つ能力」を持っている。
たとえば、定年退職したサラリーマンを見れば明らかである。ある者は地域の団体の運営責任者としてその経営能力を生かし、ある者はその経理を担当して重宝されている。運転、パソコン操作、大工、執筆、家事、料理、介助、子どもの指導、買い物、傾聴、留守番などなど、社会に生かせる能力は枚挙にいとまがない。これは専業主婦であろうと、学生、生徒であろうと、障害者であろうと同じであって、生きていくのに用いる能力は、すべて人に役立つ能力だと言い切れる。
留意しなければならないのは、それらの能力のほとんどすべてが、現在の日本においては、企業(市場経済)においても公共機関においても生かされないものであるということである。ではあるが、助け合い、支え合いなど非営利の分野においては、十分人に役立つ。なぜならその分野では競争がなく、需要は無限にあるからである。
人工透析患者や身体の不自由な人、過疎地や交通不便な高齢者団地の人々を病院通いや買い物などのため運送する助け合いの活動には、第二種免許は要らない。ゆっくり付き合ってくれるボランティアの方が、運転はプロより下手だとしても、ずっと有り難い。
パソコンを習うにしても、記憶力の落ちた高齢者には、せっかちで専門用語を連発するプロのインストラクターは向かない。プライドが傷つけられる。
階段に手すりをつけてくれるのは、見栄えより安全第一のボランティアがいいし、NPOの情報誌は、練達のプロの筆よりも心がにじみ出た仲間の文章の方がずっと心に響く。家事、料理、介助なども同じである。
子どもの指導にしても、苛酷な受験競争について行けず、生きる意欲を失いそうな子どもたちに教えるには、プロの教師よりも、人間味豊かなボランティアがよい。
このように、企業や公共機関では生かされない能力も、支え合いの世界では、むしろプロが達成できない成果を上げるのである。そして、それらの能力は、すべての人が何十、何百と持っているにもかかわらず、現状ではほとんど社会に生かされず、生命と共に消え去っていくのである。
これほどの資源の無駄はないのではなかろうか。
経済社会とは層を異にする共助の社会を構築して、それらの能力を存分に生かし、すべての人の活力源としたい。施政者は、多角的に基盤整備に努めてほしい。
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(電気新聞「ウェーブ」2009年11月9日掲載)
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