更新日:2012年3月15日
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少年時犯行と死刑 |
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光市のいたましい母子殺害事件について、最高裁判所は、犯行時18歳の少年に対する死刑を相当と判断した。犯行の残虐性や反省のなさなどから、私も全面的にこの判断を支持する。
そのことを前提として、なお心にひっかかっていることについて、三点述べたい。
一つは、死刑の是非である。
世界の傾向は、ゆるやかに死刑廃止へ向かいつつあるが、アメリカと日本は、先進国の間でも際立って死刑を維持している。民主主義、個人主義の先進国でもあるアメリカや日本が、個人の生命の価値を他の先進国より軽んじているということはあり得ないから、この二つの国で死刑を容認している理由は、他の先進諸国よりも自己責任を重く見るからだと思われる。
自己責任は、自助と表裏一体の関係になるが、両国が、自助を公助より重く見る傾向にあることは、先進諸国の国民負担率を比べて見ればわかる。
しかし、少なくとも日本は今、社会保障費の負担を増やそうとしている。自己責任の限界を社会の責任で補う範囲を増やそうとしているのである。
このように、社会連帯の意識が強まると、迂遠なようだが、犯罪に対する責任の取り方(個人責任か、社会責任もあるのか)についての感覚も、変化していくかと思われる。
二つは、犯人の極端に自己中心的な人格や他者の生命を軽視する性向を、地域の教育力で是正できなかったかという点である。
日本の教育(人格の形成支援)は、親と学校に委ねられ、地域の果たす役割がどんどん小さくなっている。父親が暴力を振るい、母親が自殺というのは最悪の教育環境であるが、そこに、地域の子どもたちと日常的に遊ぶ環境が加われば、子どもたちは、遊びという協働の場で、仲間を重んじ、ルールを守る感覚を育てるであろう。そして、親世代や祖父、祖母世代の大人たちが、地域で暮らすいろいろな場面で、人と交わることの快さとその場合に守るべき社会のルールとを自然な形で近所の子どもたちに教える環境があれば、少年の人格形成はかなり健全なものになったのではなかろうか。
北欧諸国のように国の子育ての責任を大きく認める国では、それに失敗して少年が人殺しをしても、その責任をすべて少年にかぶせて死刑にすることはできないであろう。日本は、とても北欧レベルにはいっていないが、子育ての社会化の流れは、少しずつ出始めている。ここにも、死刑が廃止されるための底流が少しずつ生まれていると言えよう。
三つは、更生の可能性である。
犯人の友人に対する手紙は、反省という視点から見れば絶望的であるし、被害者遺族である本村洋さんや担当裁判官たちの観察によっても、真摯に反省して更生する可能性は極めて乏しいという判断は、正しいであろう。
ただ、私は、検事としての経験から、やはり年齢が若いほど劇的に反省し、更生に向かう傾向があることを知っている。また、死刑には独特の教育力があって、刑が確定し、自分の死に向き合うと、数年のうちに、他者の命を奪ったことの重大さを感得し、真摯な反省をする死刑囚が多いことも知っている。
それでも、何人もの人を殺し、国民の応報感情が許さない死刑囚についてこれを救済するのは、法の趣旨からして認められないであろう。しかし、本件のように、本村さんも、「反省していれば別だったかも」という態度を示しておられるケースでは、時を経て犯人が真摯に反省する域に達し、それが確実になった時は、恩赦による無期懲役への減刑を考えてもよいかと思う。その上で、懲役囚との作業や生活を通じて社会に適応する教育をしてはどうだろうか。 |
(電気新聞「ウェーブ」2012年3月6日掲載)
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