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つれづれタイム
更新日:2006年3月15日
郷愁のかなたのリアリティ『マルタの鷹』
 

  ハードボイルド文学の創始者ダシール・ハメットが創り出した『マルタの鷹』(一九三〇年)の探偵サム・スペードは、向こう見ずで、乱暴で、金と女が大好きである。闇の世界を相手に生きていく強さを十分持っているのは大いなる魅力だが、女に優しいのは、女好きでだらしないだけであって、あまり立派な奴ではない。そのいい加減なところが庶民的で心を引きつけられるのである。
  そして、彼の決定的な魅力は、彼自身がまったく意識していない、ニヒリズムにある。やたらにタフで仕事熱心だし、自信家で誇りが高く、警察官や地方検事とはすぐ喧嘩する。一方、相棒の探偵の女房に手を出し、昼間からラム酒を飲みまくり、美しい女性依頼人の有り金を巻き上げる。だから、よほど信念を持って探偵業に取り組んでいるのか、あるいは確固たる享楽主義者(エピキュリアン)なのかと思うと、そのどちらでもない。心の中はかなりいい加減で、何としても真相を暴くぞという強い信念があるわけでもなく、といって、すぐに身体の関係を持ったチャーミングな依頼人を庇(かば)い通すわけでもない。
  ハードボイルド小説の魅力は、文体と主人公の非情さにあるが、その非情さは、何かを守るためのものだからこそ、読者の感動を呼ぶのだと思う。一方、サム・スペードのそれは、厳しい世の中で強がって生きるためだけの非情さである。
  ところが、そのいい加減な非情さに不思議な魅力が感じられるのである。その原因は、自分勝手な非情さの裏にニヒリズムが潜(ひそ)んでいるからだと思う。
  私が若い頃彼の作品に引かれたのは、そこだと思う。日本の作家では井上靖が大好きであったが、彼の創り出した主人公たちも、心に虚無をかかえながら困難な課題に精力的に挑戦して生きた。国家や個人の価値観の揺れ動く時代が生んだヒーローなのであろう。
  映画『マルタの鷹』は一九四一年、ジョン・ヒューストンの監督デビュー作で、サム・スペードを演じたハンフリー・ボガートは、これで名声を確立した。これほどのはまり役はないといえよう。あまりにカッコよくきまり過ぎて、庶民的なだらしなさのにおいが消え、その点では、原作が描いたサム・スペードの人間臭さは感じにくくなっていたが、そのかわり、市井に潜んで悪を暴く遊び人のような爽快感があって、うっとり見とれてしまったという印象である。
  今回この原稿のために映画を見直してみたが、若い頃の印象と違って、ストーリーに無理があるし、残念ながら女優陣が、原作のイメージとかなり違う。
  原作からすれば、スペードは、依頼人の女性に惚(ほ)れ込むのであるが、映画では、どうも惚れ込んだようには見えない。古い映画だから、すっかりベッドシーンを割愛してしまっていることもあるが、それよりも、勝手なことを言えば、惚れ込むに値するような女性とは感じられないのである。
  映画のほうでは、原作のニュアンスを変えて、探偵スペードが、惚れた女よりも探偵の仁義を選んだというメッセージを強調した。だから、ラストシーンで、スペードに警察へ突き出された女がうるんだ眼で彼を見つめ、彼が辛さを抑えた複雑な表情で見送るクローズアップが生きるのである。私は原作を知っているから、そのラストシーンにもジンとくるのであるが、映画だけを観た人は、このいい加減なスペードが、それほどに女依頼人に心を奪われていたとは理解できないであろうから、ラストシーンの感激はさして濃くはなかったかもしれない。
  そういう意味では、映画は原作に及ばないと言えるのであるが、にもかかわらず、この映画を原作と並び立つものにしているのは、ひとえにボガートの存在のおかげである。彼が、ソフトを斜めにかぶり、コートの襟を立ててサンフランシスコの夜の街を歩くだけで、もう女優さんの容姿もストーリーの不自然さも、どうでもよくなってしまうのである。この作品に続く『カサブランカ』では、彼は独裁政権に密かに反抗する市井の人を演じて最高であったが、大義なき遊び人を演じても、それはそれで彼は十二分に魅力的であることを世の中に証明したと言ってよいであろう。
  それにしても、情緒豊かな白黒映画で、殺される人がたったの三人とは、懐かしさを感じてしまう。昨今のアクション映画では三百人くらい簡単に殺して、主人公は三十発撃たれても死なないではないか。そんな映画に慣らされた身で、一人一人の殺され方と殺す理由をじっくり描いた作品は、ハードボイルドながらにリアリティすら覚えるのである。ハメットの元祖ハードボイルドとして名を馳(は)せた文章も、昨今の乾いた文章に比べれば、繊細さすらただよわせて、郷愁をさそう。
  昔を甦(よみがえ)らせてくれるところが、名作と名画の味わいなのかもしれない。

(講談社「小説現代」2006年3月号掲載)
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