底流としてはかつての偏差値教育は、いまも全くその流れだが、子どもたちを危なくすることはだいぶ保護者たちはわかってきたし、心ある先生方もわかってきた。小学校レベルでは総合的学習の時間は保護者もすごく支持しているし、先生方も支持の方が多い。ところが先生方の中でも、人間性育てるというよりは、自分の教科を教えるだけで大変と、そっちで精一杯という先生方は人間を育てるなんて反対で、勉強さえできればいいと言う価値観にとらわれている大人たちと先生方、大学の先生方を含めて、これが教科、教科ということを強調して、ちょっとテストの成績が落ちると大騒ぎをする。
人間を育てることを考えていない。教科だけ。これはエゴなんですよ。先生はそれが楽なのだから。大学の先生も教科だけ教えていれば楽だし、下の方で教えてくれればもっと楽できるから。結局、自分の城に閉じこもって楽したいのだと思う。子どもをちゃんと教える意識のない人たちが教科が落ちたら大変、教科、教科という。そんな流れになっている。それに乗って教科万能主義者、これは本当にそう信じ込んでいる政治家とか有識者がいるのだ。前の文部科学大臣も東大、大蔵省、政治家。その前も勉強ができた。勉強ができて人からほめられて、勉強ができることが一番大事だと信じ込んでいる人たちが力を持つと、自分の路線にともかく引き込もうと、すべての子どもたちをという、とんでもない視野の狭いことを、しかし善意で、確信犯で、そっちへ引っ張ろうとするのだ。
学力低下はそんなにしていないと思う。米国、フランス、ドイツ、イギリスなどより日本が上だ。日本より上はシンガポールとか、今高度成長の真っ最中のところ、それから子どもたちのまったく自主性を認めた教育に変えた北欧の国だ。上の方はたいてい発展途上国で、ちょうど日本が勉強して日本の学力がずっと上だった頃の成長段階で、勉強さえできればいいところへ就職して、お金を儲けて、あれが買えて幸せだというそういう国だ。個性を認め、自由を認め、個人の幸せを築こうとしている国は学力は全部下だ。それは当たり前だ。全部が平均点なんて意味がないのだから。
だから、そこは学力低下は問題ではない、むしろ個性を認めている。それを全部引き上げようという思想は平等主義だから突出させないという風につながっている。ここは大問題だ。国を憂える人たちがもっと科学を勉強させろ、日本は負けるというのは、画一教育で突出させないから全部を引き上げることが大事なのではない、研究していることが幸せで幸せでしょうがないという子どもたちもいる。この子らは学年にとらわれずにどんどん伸ばして、思い切り自分で考えさせる。日本の学者たちも米国へ飛び出せばいろいろ発明したりする。その子たちはそういう環境をつくって思い切り伸ばしてやればいい。好きなことをそれぞれの子にやらせれば、科学を好きな子はもっともっと伸びる。日本は発明力がない、模倣だというが、それは画一性だからで、もっと伸ばせば、日本人だって海外でどんどん新しいことを考えている。それを国内でやらせれば日本の科学は世界に冠たるものになる。それも彼らの発想はその逆だ。思い切りそれぞれの個性にあったことをさせてそれぞれの能力を思い切り伸ばすことをやれば、彼らの心配はなくなるのに、逆に仕切って、全部を上げようなどと馬鹿なことを考える。上がりたくない子はくずれておかしくなっていって、それこそゆがんでいって少年非行の方にいってしまう。伸びたい子はつきあわされて伸びないということになる。 |