大きな格差が生まれてきたというのは構造改革の大きなつけだと思うが、ある意味で必然的な副産物であって、それぞれの能力を存分に発揮させようということになると、経済面だけとりあげると、やっぱりそういう経済的な力を持った人たちが伸びて、そういう面で市場社会でなかなか力を発揮できない人たちが経済面で報われるところが少なくなるというのは、初めからそういうことを意図してやっているわけだから、格差を生じるのは当然なので、想定内の副産物だということになると思う。
ではそれをやめてまた共産主義のような平等主義をとるかとなるとこれはもう歴史的に否定されている。それではもう活力が生まれないということは明らかなので、そちらの方向には戻れないわけだ、それが良くないからといって。それではどうするかというと、格差が経済的な面にだけ着目されて、それだけが絶対基準になっているから、それだけで見ると経済的弱者というのは実に不孝な人で、一方で実に幸せなたくさんお金を持っている勝者が出てとんでもないじゃないかという議論になってしまうが、果たして経済的な力があるかないか、お金持ちかどうかということが果たして人間の幸せの唯一の基準なのか。
いままではその基準だけでやって来ているが、お金をたくさん持っていても不幸な人もいっぱいいる。人間関係で不幸な人、浪費してしまって心のむなしい人たくさんいる。逆にお金はないが、生活ができなければ大変不幸なことだが、自分が満足に生活維持できるくらいの生活をしていて、いろいろ良い仲間もおり、人のために尽くし、趣味や好きなことをして良い作品を生み出して本当に幸せだと、あるいは家族の愛情のなかで包まれて本当に幸せだという人たちも、経済的な面からみれば敗者のなかにもたくさんいる。だから、人にはいくつかのいろんな多様な価値基準があるのだから、その多様な価値基準をそれぞれ社会が承認して、それぞれ経済的には下の方かもしれないがもこちらの面ではすばらしいよねと、本人も大満足と、そうであればその人を勝者として認める。だからいろんな尺度がたくさん用意されていてみんながどこかの尺度で勝者になれるという、みんながそれぞれに自分の人生に満足できる生き方をするという、そういう社会に変えていけば、経済的な格差は必ずしも大きな問題でなくなっていく。
そういう社会に変えていくように政治も、社会も、教育も、全部が多様な価値基準を認める、そして経済力というのは、ほかの幸せをつくり出す、ほかの価値基準を支える基礎的なものにはなるから、これをNPOを支えたり、いろんな趣味の活動を支えたり、いろんな面で経済力をうまく使っていろんな価値観が充実するようにやっていく、そういう方向の社会づくりを進めていかないと、もう経済一本でいったら本当にひどい社会になりますよね。
いろんな幸せがあるよと、みんなでつくりだせるよということを、訴え続けていきたいと思う。
基本的には働き方についてもっと多様な、市場原理の修正だろうか、どんな人でも働けるというそういう柔軟な雇用構造、就職構造につくり変えないと、そこのところですごく力がそがれている。一方ではともかく優秀な人、優秀な人というのはだいたい知識のある人、そもそも学校に入る順位付け自体がその知識のある人、何か特別の能力を持つ人だけを雇いますと、そこで順位付けをしてしまっている。そして、どうにもならない障害者については別枠設けて雇用原理からすると雇えないのを雇うというのは、これはすごくギャップが大きい。
実際の職場ではいろんな能力が生かされるわけだから、例えば数学があまりできない人は、学校の授業について行けない不登校児とかに教えるには数学のできない先生が良い先生で、できる人は悪い先生だから。そういういろんな能力が生かせる場が社会のなかにたくさんあるわけで、そういう能力を生かすような仕組みを上手にリードする。そういう意味で、優秀な作品だけをつくるのが市場だと思っているが、市場をもっともっと多様なニーズに応じる多彩なものに変えるという努力を、これは民間の方でもいろいろやらないと。経団連をトップとして大企業をトップとして新日鐵、トヨタが一番上というのはおかしい。だから、経済界の努力も非常にいると思う。
そうなると、いろんな人が自分にあったところで働けるからというので、すごく自信を取り戻すと思うのですけどね。 |