更新日:2011年1月8日 |
環境、この幅広い問題 |
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環境問題は、かつては公害問題であった。
足尾銅山、水俣、四日市。
企業がまき散らす、毒を含んだ排出物。
罪のない地域の住民が受ける被害の悲惨さ、理不尽さ。
発展途上国では、今も、企業を元凶とする非人道的な公害問題が、跡を絶たない。
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私は、やっと日本が正面から公害問題に取り組んだ1970年前後、法務省刑事局に検事として勤務しており、特命で公害対策立法を担当した。
次々と打ち出した公害対策は、国民の強い支持を受けて成立したが、裏で大企業の反発は強かった。
公害を惹き起こした某大企業の会長から、企業関係者の集まっている場で、法務省は国賊だと面罵されたことを忘れない。「そちらこそ国賊だろ」と言い返したい言葉をのみこんだから、悔しさが一生残ることになった。
それだけに、一連の対策立法が実施されて1年もたたないうち、四日市の空がきれいになり、隅田川のどす黒い濁りが消えたときは、腹の中で「どうだ。やればやれるだろ」と叫んでいた。
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70年代、外交官としてアメリカ暮らしをし、そこで、「環境問題に取り組むことは、上流社会人であることのステータス・シンボルである」ことを知った。
守る環境も、上流の人が別荘(ログハウス)を建てるような、美しい自然環境である。日本とは、レベルが違うなと感じた。
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その後、日本人の生活レベルは向上し、90年代、NPO法ができると、驚くほど多様な環境保護団体が、法人として名乗り出た。
バッタ、メダカ、スズメ、精神病のイヌ、カニ、そのカニを食べるアライグマ。保護団体の間でモメゴトが起きたりする。
山、川、森、里。山のゴミを拾うNPOは、ヘリコプターを使う。
日本には、ステータス・シンボルのような感覚はない。それだけによけい、人の好みがいかに多様かを痛感させられる。
仕事や学びの世界ではあまり個を発揮しない日本人が、環境や自然の世界では、個性的に好みを生かしている。
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しかし、いかに多様に、幅広く環境保護活動を進めようと、環境問題は、当分解決しないであろう。
それは、環境問題を惹き起こす元凶である人間が、増え続けているからである。
私は、人間が環境を破壊しないで地球と共存できるためには、総人口を20億程度に減らす必要があると考えている。
全人類が総人口減少に取り組む時が来ていると思う。 |
環境ネットワーク・文京発行「知恵の輪ねっと」Vol.46掲載 |
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