第一条(死の意義)死とは無限に帰することである。
親父が死ぬ少し前、しきりにエマーソンの思想を語った。そして、「死んでも魂は回帰する」ということを強調した。
私は、「おや?」と思った。
親父は特定の信仰を持たない合理主義者だと思い込んでいたからである。
「エマーソンの言うたことは正しいと思うか」と聞かれて、私は困った。しかし、一瞬でためらいを捨て「そう思う」と答えた。
「親父でも、最後は何かにすがりたくなるんだ」。私は「死」の強さ、人間の弱さを思い知らされた。
信仰を持つ人は幸せである。「死」に対抗できる生命の救いを持っているからである。
そうではない人間は、どう考えればよいのだろうか。
しっかりした考えを持たず、最後にうろたえるのは、見苦しいし、自分も辛いだろう。
とはいえ、生涯巨悪を追った元検事総長伊藤栄樹のように「人は死ねばゴミになる」と達観するほど強くもない。
私は、幼少のころ日々唱えさせられた般若心経「色即是空 空即是色」の感覚を素直に受け入れている。人は、死ねば無限の空(広大な自然)に戻ると思うのである。今にして思えば、エマーソンの思想にも近い感覚である。
「無限大の自然に戻るのか。それも、悪くはないな」と思うようになってきている。
第二条(死の迎え方)最後まで、生を全うすることに努めるべきである。
ホスピス病棟にも施設にも、死の近いことを告げられながら、なお眼を輝かせている人たちがいる。
生きてきたことに満ち足りて万物に感謝し、今の一刻を尊いものと実感しながら日々を過ごしている人たちである。
私の母(養母四奈)も、そういう最後の時を過ごした。「肺がんのため、あと1年」と告げられ、英文の小説を読み、自分の俳句の整理、注釈に打ち込んだ。「死ぬために生きるに非ず冬薔薇」と、句作も続けた。
薬の副作用で言葉が出て来なくなると、デッサンを楽しみ、80歳、傘寿の祝いと句集出版の祝いを兼ねて教え子たちをパーティに呼び、最後は「もうこれ以上頑張れない」と言って、主治医や看護師さんにも感謝して、死んでいった。
倒れてなお己を失わず、人に役立ちたいという心を失っていない人は多い。そういう人とは、多くの人々が絆を持とうとするし、亡くなっても絆を大切な思い出としている。
認知症になってなお、その人柄をより純粋に発揮し、おだやかな感謝の言葉を絶やさない人々も多い。
よい死を迎えたければ、生を充実するしかないと思う。
第三条(死への準備)よい思い出だけを残して消えて行きたい。
社会福祉の分野で活動していると、人に散々迷惑をかけ、心痛を与えて死んでいく人がこんなに多いのかと慨嘆する。
もちろん人はたっぷり人に助けてもらわないと生きられないし、死ねないから、迷惑をおそれて自粛するのはよくない。しかし、その迷惑は、報われる迷惑であってほしい。つまり、その人のいい生き方、いい死に方を実現するのに役立つ迷惑なら、満足感という大きな報酬が得られるから、多くの人は喜んでその人を助ける。いけないのは、無責任な迷惑である。
たとえば、認知症を発症したあと、どう生きたいのかについて何の意思表示もなく、準備もない。
たとえば、意識の回復があり得ないとなったあと、延命治療はいらないという尊厳死の意思表示をしていないことがわかる。こういう場合は家族にも病院にも大迷惑をかけるうえ、すべての国民に莫大な医療費のつけをまわす。私自身は、「口から食事を取れる可能性がなくなったら、延命のための治療はしないこと」という意思をここで表明しておく。
献体も、お役に立つなら、したい。
お葬式についても、してほしい形を決め、必要なお金を準備しておきたい。私自身は、幼少時、私の心を惹きつけ、癒し、励ましてくれた日本海に散骨してほしいという文章を、十数年前から用意している。
問題は、遺す財産の処理である。弁護士という資格を持っていると、所得、学歴、社会的地位のいかんにかかわらず、財産分与が遺された家族の対立、離散の原因となっている事例を、嫌になるほど耳にする。自分の子に人の財産を当てにしない自立の精神を植え付けておくことが先決であろう。
よい思い出だけを残して消えて行くには、子育てのころからの長い努力が必要なのである。
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