私のガン対策は、昔からやってきている風邪対策と同じである。初期段階は、気迫で勝つ。
「気合いが入ってないから風邪を引くんだ」と言うたび、妻に嘲笑(わら)われてきた。
「パパって、ほんとに非科学的」
しかし、引きかけの風邪は、たいていそれで退治してきた。「今はやらなきゃならんことがあるんだ。風邪など引いている閑はない」
それで、鼻をクスンクスンさせたり、少々頭が重くなる程度の風邪は、やりたいことを夢中でやり終えた頃には、消えていた。
私は、喜寿。いつガンになっても文句は言えない年齢ではあるが、夢中でやりたいことをやっている。だから、朝起きると、力がみなぎっている感じである。初期の風邪を退治した時のような感じなのである。
それでも疲れが底にたまっていて、風邪に負けてしまった時は、逆らわない。布団にもぐりこんで、それでも食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んでいる。
ガン細胞に負けたら、やっぱり好きなことをしながら、つき合おう。そう思っている。
*
ガンへの対応を教えてくれたのは、1991年4月、肺ガンで死んだ母四奈である。
その前年6月、セキが止まらないため肺ガンを疑った母は、京大病院で人見滋樹先生の診断を受けた。人見先生は、付き添っていた妹と弟に、肺ガンだと告げて下さったが、二人は母に言えなかった。当時は、本人には告知しないという強いしきたりがあった。
どうしても真相を知りたい母は、人見先生に聞いた。
「これは肺結核ですか」
「いいえ、違います」
「じゃ、肺ガンですか」
人見先生は、詰まられた。すでに妹、弟に告知してあるが、本人には知らされていないとわかったからである。母は、聞いた。
「じゃ、良い肺ガンですか、悪い肺ガンですか」
「良い肺ガンです」と人見先生は答えて下さった。
あとで、母は笑って言っていた。「肺ガンに良いも悪いもないわよ」
人見先生から余命1年と聞いた母は、句をつくった。
死ぬために 生きるに非ず 冬薔薇(そうび)
「あと365日と考え、1日1日を大切に生きる」と言っていた母は、そのとおりの日々を送った。
右脳がおとろえないよう句を詠み、これまでの句を整理し、左脳がおとろえないようにシドニィ・シェルダンを原文で読んだ。
薬の影響で言葉が思い出せなくなると、妹やその飼い犬のスケッチをした。
そして、4月24日朝、かこんだ子どもたちに「もうこれ以上は頑張れない」と言い、医師、看護師らに礼を言って、眼を閉じた。
母の生きざま、死にざまから学び、私は、死(たぶん、ガン死)に対する心がまえを固め、文章にし、公表した(「さぁ、言おう」2005年8月号「ひとりごと」。さわやか福祉財団発行)。
老いてなお現実をみつめ、若々しい好奇心を燃やす。その一方で、死をみつめ、「空」の心境に至る。この両者を、両立させたい。
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その後、ガン告知は、当然のこととなった。
私は、親戚や知人など、多くの闘病を見てきた。
多くの人は大きなショックを受け、医師の言うがままに、少しでも長生きできるような治療を受ける。
しかし、その判断には、前提の誤りがあるように思う。その治療を受ければ、一時期元気な頃と同じような生活が送れるという錯覚である。実態は、抗ガン剤の副作用に苦しみ、さまざまな機能障害に苦しんで、人生の輝きは戻っていない。
単なる延命のための治療はしないと決めた。
そういう視点でここ数年、ガンを宣告された方々の生きざまを見ると、生命の火を燃やし続け、集中してしたいことをしておられる方が目立つ。
筑紫哲也さんがそうであったし、立花隆さん、鳥越俊太郎さんも、ガン発覚以前よりもむしろ精力的にやりたいことに取り組んでおられる。薩摩の島津家につながるボランティア仲間の島津禮子(れいこ)さんも、いきいきと団体の仕事をこなし、血色がよく、眼が輝いている。「抗ガン剤を止めたからよ」とおっしゃる。
余命はいらないから、元気に過ごしたい。そういう治療ないし不治療のあり方を経験則から確立してほしい。私は、そのアドバイスに従うと決めているからである。
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