政治・経済・社会
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提言 政治・経済・社会
更新日:2010年1月30日
日本に個人献金は定着するか
    
政治家が「市民の代理人」となってはじめて、
献金文化は日本に根づく


 雨だれマーク なぜ日本では社会参加の寄付が乏しいのか
企業、団体の政治献金の禁止が大きな政治課題となっているが、日本は、アメリカなどと比べると、圧倒的に個人の政治献金額が少ない。
その理由は、基本的に日本には寄付文化が根づいていないからであり、とくに政治献金については、政治に積極的に参加しようという意欲が十分でないからだと考える。
まず寄付文化一般についてみると、日本人は吝嗇(りんしょく)な利己主義者というわけではなく、慈善のための寄付は惜しまない。内外の災害時には多額の寄付が集まるし、遺児救済のための寄付や赤い羽根募金、歳末助け合いなどはかなりさかんである。
乏しいのは、社会参加の寄付である。福祉、文化、環境その他どの分野にせよ、そこで新しい価値を創造しようとする活動への寄付は、アメリカなどと比べると格段に少ない。だから、多くのNPOが資金難にあえいでいる。
その原因は、ひと言でいえば、日本人はお上頼みの習性から抜け出せず、受け身で生きているからであろう。ただ最近、政官財連合体の推進力が弱まるにつれ、市民の社会参加への意欲が高まり、寄付文化もかすかに姿を現しつつある。

 雨だれ 国民はもう「お上頼み」をやめる覚悟を決めた
次に、政治参加の意欲についてみると、かつては都市部を含めて、全国で投票買収事犯が多発していたことから明らかなように、国民にとって、政治とは、政治家が利益を国民にばらまくものであった。
長年続いた自民党与党時代の基本的な政治体制は、政治家が官僚と組んで財界を発展させ、あげた利益を国民に分配するというものである。そして国民も、それによって生活が向上していくかぎり、異議はなかった。つまり、国民は政治の間接的な受益者にすぎなかったから、その政策の実現・実施のためにみずから必要経費(政治資金)を負担する気にはならず、直接の受益者である企業などの団体が負担するのが当然だ、という感覚でいたのである。
しかしながら、この体制は、高度成長を遂げ終えた1970年代から徐々に機能しなくなる。物的な生活基盤をおおむね築いた国民のニーズは多様化し、その一方で分配の量は伸びず、国民に給付(分配)をするには、その負担を一部求める必要性が次第に高まっていく。どんな給付をするか、そして、どこにどれだけの負担を求めるか。それは、財界はもちろん官僚も決めることができず、政治は直接国民の意思を聞いて決めるしかない。国民は、ついに2009年(平成21年)になって覚悟を決め、民主党を選んで従来の体制を捨てたのである。
個人献金がすすむ条件は整いつつある
これからは、政治は一方的分配者でなく調整者となり、国民に選択肢を示してその意思を探り、多様なニーズと負担との組み合わせのうち、国民の総意に沿う形を選んで実現していく役割を果たさなければならない。
やっと国民が政治の直接の受益者、もしくは人によって被害者となる立場に立ち、政策の方向を選ぶ段階に入ったといってよい。
ただ、いまはまだ新しい舞台が整いつつある状況で、選択肢もしっかり示されていないから、国民が政治に参加し、寄付もして個々の望む政策の実現を図るというステージにはいたっていない。したがって、個人献金が伸びるという結果は現れていないが、条件は整いつつあるといえよう。
個人献金を推奨するための公的制度として、税制上の優遇措置(全額所得控除または3割の税額控除など)は、公益活動支援の寄付の優遇措置に比べると、はるかに幅広く認められており、それが大きな障害となっているとは考えられない。献金の用途の情報公開制度もしっかりできている。むしろ政治家自身が、一般市民が献金に応じやすい仕組みを開発していないことが問題であろう。

 雨だれマーク 政策の基軸を明確にしてこそ国民が共感する
まず、寄付文化一般の定着方策を考えると、王道は、広義の教育による社会参加の義務の自覚しかないであろう。
要するに、行政任せ、お上頼みではよくならない、だから、自分たちがやるしかないという覚悟である。ただし、自分自身が労力を提供できないから、せめてやってくれる人たちのためにお金を出そうとなってはじめて、寄付の動機が生まれる。
日本のお上、行政が国民のニーズを十分に満たすことができなくなっていることは、ニュースからでも学べる。問題は、自分たちがやるしかないという覚悟がいきわたるかである。社会全体で形成していくほかない。
次に、政治参加の意欲の普遍化である。
すでに述べたように、日本の方向は国民の政治的選択によって決めるほかない状況となり、客観的に舞台は整いつつある。
そこで政治は、国民にしっかり選択肢を示さなければならない。そうでなければ国民は参加のしようがない。
共助を重んじ、経済的、社会的弱者に対する支援を政策の基本とするのか、それとも自助を重んじ、自助努力と自己責任を政策の基礎とするのか。
前者を選べば、社会保障や教育の給付は厚めで弱者の負担はより低く、大きな政府になりがちであり、後者を選べば、政策はその逆の方向になる。
前者を選べば、中小企業や地方の事業、それに介護、医療、教育など、人を直接の対象とする事業の保護育成が厚めとなり、後者を選べば、グローバル経済に立ち向かう強い企業のための基盤整備が最優先の政策になる。
前者を選べば、平和共存が最優先で、国連中心志向、アジア諸国などとの連携志向となり、後者を選べば、自立した普通の国家志向で、アメリカの力による秩序維持の傘下に入ることが最優先という外交になるであろう。
このように、政策の基軸がはっきりすれば、いずれかの方向に共感する国民が寄付などをおこなうようになり、その政党を支える動きが拡がるであろう。

 雨だれマーク 市民が政治資金を出すのを惜しまないとき
さらに国民は、それらの基本的な政策選択だけでなく、それを前提として、たとえばホームレスの復帰、DV被害者の救済、障害者の自立支援、高齢者の生きがい、肝炎ウィルス患者の救済、外国人の受け入れなどといった個別の政策の展開、あるいは、さまざまな分野ごとの環境保護政策や文化の振興策などの展開を政治に求めている。
特徴的なことは、こうした特別な価値の実現を求める人々は、熱い思いを持っており、そのために労力も提供するし、資金も提供する気持ちでいる。そして、政治家が彼らの代理人となって活動してくれるのであれば、彼らはその政治活動資金を出すのを惜しまないであろう。
このように、政治参加の気持ちが熟している市民も少なくないのに、残念ながらそれをくみ上げる政治家がまだ少ないため、市民の多くが無党派にとどまっている。
09年の総選挙で、民主党は、まだすっきりしないとはいえ、一応基本政策を示すことによって民心を動かした。あとは個々の政治家が、個別の政策を示すことによって、その実現を希求する人々の心をつかみ、労力あるいは金銭による支援につなげることである。
そのためには、具体化された政策のアピールが市民に届かなければならない。届けば、交通遺児支援活動やフォスター・プランが広く寄付金を集めたように、その政治家の活動を支援する個人献金が集まるであろう。
これからの政治活動、選挙運動は、利益団体をまわるのでなく、無党派である一般市民のなかに入り、いかに政策でその心をつかみ、その労力と資金を引き出すかにかかってくるであろう。政治家が、そのようにして一般市民の政治参加の意欲を引き出し、これを政治献金やボランティア参加にまで高めていったとき日本は真正民主主義国家になるのであろう。

(文藝春秋社発行「日本の論点−2010」掲載)

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 [日付は更新日]
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2010年1月30日 「友愛社会」へ見えぬ戦略
2009年12月9日 子ども手当と友愛社会
2009年11月25日 ヒトの能力の活用
2009年10月14日 政策優先順位間違えずに
2009年10月8日 官僚とのバトル制し民意実現を
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