田中角栄逮捕まで
1976年2月4日、米上院の小委員会での証言で、ロッキード事件の背びれが浮かんだ。
ロッキード社が日本への航空機売込みのため30億超の金を使ったという。児玉誉士夫、小佐野賢治など、いわくありげな大物の名前や、全日空、丸紅など、基幹企業の名前が出て、日本社会の表と裏にまたがる大規模な疑獄事件が潜んでいるとの予感が日本中を揺るがした。
同社副会長アーチボルト・カール・コーチャンの証言で、資金の一部が政府高官に行っているという。それは誰か? 報道は関係者を追い、国会も名前が出た大物や会社幹部らを次々と証人尋問したが、背びれの下の巨大な魚の姿は見えない。
立花隆さんは、早い時期にそれは田中角栄ではないかと推測する文章を発表したが、同氏は4月2日の所感で全面否定。アメリカは三木武夫総理の要請に対して資料の提供を拒み、日本の検察当局に限定して資料を渡し、その解明に委ねた。
東京地検特捜部は吉永祐介副部長を主任として、日本各地で地道な積み上げ捜査を展開、ついにその年の7月27日、田中角栄を逮捕した。水面下から突如現れた魚は、前総理大臣。そして容疑事実は、総理現職時代のものであった。
不思議な観測
1976年当時、社会に出ていた人たちのうちかなりの方々が、「いやあ、田中逮捕のニュースにはびっくりしましたよ。私はその時○○にいて聞いたのですがね」と話される。そのニュースを聞いた時にいた場所、していたことを覚えておられるのである。よほど強い印象を受けられたのであろう。
コーチャンらの証言や、それまでに特捜部が逮捕した人物の関係から推測すれば、「田中角栄」は、さほど意外な名前とは思えない。
その後の捜査で判るのだが、実は田中角栄サイドにも同じような認識があって、たとえばその秘書榎本敏夫は、コーチャンらの証言が出て間もなくのころから、丸紅の伊藤宏と証拠隠滅の打合せをしているのに、7月には、「もう逮捕はないのではないか」という漠然たる憶測を持ち、安心していたふしがある。
汚職の濃い容疑があるのに、なぜ田中角栄に逮捕の手が及ばないという空気(観測)が広がっていたのか。
捜査する側からすれば不思議なこの観測の背景は何であろうか。
政治とカネをめぐる2つの流れ
政治は統治者が統治者のために行うものであり、庶民(被統治者)は統治者の恩情にすがる立場である。この近代以前の政治に対する認識は、民主主義国家になった後も、特に農業を主とする地方経済圏域で根強く残っていた。選挙の度に主に地方で多発していた投票買収は、その認識の表れである。票は、当選によって利得する政治家が庶民から買い取るものであった。
そして恩恵は、道路建設を典型とする国家予算の分取りである。その力のある政治家が、その立場を使って金を得ることは、黙認されるべきことであり、ロッキード事件の摘発に反発する声は、そういう地方の集会では、激しいものがあった。
もう一つの流れは、戦後増加の一途をたどった都市部サラリーマンや行政の保護、監督を受けない自立した企業人など、利権のおこぼれに予(あずか)れない人々の認識である。
彼らは、人が本性として授かっている正義感の発露として、汚職を嫌悪した。丸紅にピーナツ(ロッキード社の裏金100万円の符丁)をぶつけるデモが、その象徴であり、国会は、その声に押されて、政府に真相の解明を求め、予算審議をストップした。
2月26日、私は法務省の密使として渡米し、米司法省、国務省及びSEC(証券取引委員会)の担当幹部らと、米側資料引渡しの下交渉をしたが、米上院で出たロッキード社の売込工作は、イタリア、西ドイツ、オランダ、トルコなどでも行われており、それらの国々も資料を求めていることがわかった。
しかし、米司法省は、資料引渡し交渉の一番手(モデル国)として日本を選んでくれた。「日本の申し込みが一番早くて、一番熱心だったからだよ」と司法省の担当幹部ブルーノ・リストウは後で教えてくれた。
司法省は最後まで熱心に資料の引渡しやコーチャンら贈賄側の人物の証言獲得(嘱託尋問)に協力してくれたが、それは、国外犯処罰規定をほとんど持っていない米国において、司法省が、自国民(ロッキード社ら)の海外における不正行為をにがにがしく思い、海外諸国がこれを処罰することを強く望んでいたことの表れである。
その司法省の担当官から、日本の正義感が西欧先進諸国のそれよりも優っていると評価されたことは、うれしい驚きであった。
2つの流れのうち、後者の流れが国民の間で深く、広い主流になっていることが確認できた。
当時の情勢と検察への信頼
政治家の汚職に厳しいのは、抽象的な正義感だけでなく、戦後から80年代まで続いた経済、社会情勢に由来するといえよう。戦後初期の体制選択の混乱期を除けば、日本は、経済成長を求めてまっしぐらに進んできた。その間、政治は、その路線を実現する自由民主党に託する以外の選択肢はなかった。つまり、政策による選択は事実上なかったのである。
そうなると、個人の資質、人格が、政治家を選ぶもっとも重要な要素とならざるを得ない。国民の利益に背き、特定の企業などから賄賂を受領する行為は、政治家として最低の人格を現わす行為ということになる。
そういう判断で、国民は、政治家の重要な資質認定を捜査当局に委ねていたといえよう。しかし、警察の選挙違反捜査を見ていても、当選した政治家に及ぶ例は少なく、黒い霧の疑惑や立花さんが指弾した田中金脈疑惑を見ても、検察の捜査が実力ある政治家に及ぶのは難しいと思われる状況であった。
検察は、布施健検事総長、神谷尚男東京高検検事長の「国民の負託に応える」という呼びかけに一丸となってロッキード事件に取り組んだのであるが、国民の間では、十分な信頼は得られていなかったと考えられる。
だから、田中逮捕の衝撃は倍増されたのであろう。
ロッキード事件後の国情と国民の眼
ロッキード事件のころを境目として、典型的な投票買収は、かなり姿をひそめていった。地方の住民の間においても、「政治家は儲けるのだから、票を買って当然」という認識は、おおかた消滅したといえよう。
政治家の警戒心も強くなり、伝統的な贈収賄は、おそらく実態として、かなり控えられるようになったと推測される。
ロッキード事件を負の教訓として、大ザルであった政治資金規正法の網の目が、せばめられる方向に進み出した。まだ相当な抜け穴はあるものの、国民の眼が厳しくなり、先にあげた古い方の流れ(政治による利得を容認する流れ)は、おとろえている。
それにつれ、特捜部に対する心情的支援は、絶対のものではなくなってきている。ロッキード事件で、最高権力者であっても法に反する容疑があれば摘発するということについては実証したものの、金丸信の政治資金規正法違反事件で本人の取調べをしなかったため大きな不信を招き(92年)、またその逆に小沢一郎秘書の同法違反事件では、政治的意図を持った介入ではないかとの有識者の声がかなり出た(2010年)。
その背景には、80年代から、少しずつ、経済成長至上主義の基盤が崩れ、政策を選択して政治の方向を決める可能性が出てきたことがある。清潔であることも重要だが政策も重要という状況の中で、特捜部に政治家の資質決定権を委ねることに対する反発が生まれてきたのである。
政治の理想の姿は、「政治家が一切利権がらみの金を受け取らず、政治資金はすべて国民の浄財(寄付)で賄われる。だから、政治家は私心なく、国民のための政策を掲げ、それによって選別される。その結果、選ばれた政策が実現される」という姿であろう。
理想に向かって揺らぎながら進む中で、特捜部は、次第に政治資金公開のルールの番人となっていき、やがてロッキード事件はあり得ない過去の遺物となる時が、いつの日か来ることを願っている。
その過程で、大きな役割を果たすのが調査報道である。
ロッキード事件は、捜査の秘密がほぼ完全に守られた、稀な事件であったが、田中起訴後の8月、朝日新聞社のチャーリーこと村上吉男氏がとんでもないことをやらかしてくれた。絶対秘密裡に証言を採ったコーチャン副会長から、詳細な供述を引き出したのである。
全メディア仰天のスクープであるが、公表は起訴後で、捜査への悪影響を避ける配慮は十分であるところが、何とも心にくい仕業であった。
その後、刑事事件にかかわらない調査報道へとマスコミは動き始めたが、このところ、往時の勢いが感じられないように思う。しかし、特捜部でなく、市民が政治家の人格を判断するのであれば、政治とカネについてもっと調査報道がされなくてはならないし、それが選挙における判断材料としてもっと重んじられなくてはならないであろう。政策の選択がいかに重要になろうとも、汚れた金を憎む国民の感覚(2つの流れのうちの後者)は、いささかも後退していないからである。
捜査と国際協力の現在につづく問題
ロッキード事件の捜査の特徴は、国際協力である。コーチャンらの嘱託尋問は日本としては初めての経験で、司法省も裁判所も、全面的に協力してくれた。
ところが、その尋問調書の証拠能力が、95年2月22日の最高裁大法廷判決で否定された。被告人(丸紅の幹部3名)の有罪が覆ったわけではないが、76年、あれだけアメリカ側の善意による協力を受けた成果が否定されたことをどう評価すればよいのか。
最高裁の判断には、歴史的に見て誤ったものが時々あるが、この判決もその一つだと考えている。証拠能力を認めない理由は、最高裁判所及び検事総長らがコーチャンらに対して行った「不起訴の宣明」(証言した事項については、日本の法令違反として起訴されない旨の宣言)は刑事免責と認められず、これによる証言強制は違法だということである。
たしかに日本にはアメリカと違って刑事免責の制度はないが、コーチャンらはたとえ贈賄について証言しても、日本では起訴しようがないのであって、そのことも考慮して起訴されないと宣明することは、騙すわけでも何でもなく、適法である。そして、それが適法であれば、刑事免責制度の有無にかかわらず、コーチャンらが処罰されるおそれがないのであるから、彼らが主張する黙秘権を否定して証言を強制することに問題はない。
最高裁は、法制度が異なる二国間の国際協力について、法制度の基本原理に反するか否かの基準で手続の効力を判断すべきであるという当然の法理を忘れ、国内手続と同じく個個の法令違反の有無という基準で効力を判断するという過ちを犯している。これでは、捜査の国際協力は、発展しない。
そうでなくても、経済や社会の国際化が大変な勢いで進展する中で、捜査を含む司法の国際協力は相当に遅れている。ロッキード事件の捜査が開いた捜査協力を制度にしてさらに広げていく努力が必要である。
また、刑事免責制度が日本になくてよいのかという問いかけを受けとめ、日本の捜査のあり方を検討する努力もされなくてはならない。それらが、いまだに不十分であると思うのは、筆者の思い過ごしであろうか。
|