更新日:2011年4月6日
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震災避難と汚染避難 |
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私は、ボランティアの仲間たちと、毎朝山手線の各駅に立ち、大地震・津波被災者救援のための募金活動をしている。心の暖かい方々が結構おられて、1時間で数万円、日により所によっては十数万円の救援募金が集まる。
同額をさわやか福祉財団の資金から加え、その日のうちに、救援活動をしている現地のNPOの仲間たちに送っている。送り先は日々異なり、山形から太平洋側にガスボンベなど必要な物資を届けているNPOもあれば、仙台で避難所を回っているNPO、新潟で福島からの避難者25名を預かっているNPOなど、さまざまである。
そういう活動を通じて入って来る情報によれば、大地震による被災者と、放射能汚染の
おそれのため避難して来る方々は、類型的に、気持ちが違うらしい。
大地震の被災者たちは、私たちがこれまでの震災で経験している通り、打ちひしがれてはいるが、何とか生きていきたいと願い、頑張ろうという姿勢を見せる。それが多数派である。
これに対して、放射能汚染のおそれを避けて土地を離れた方々は、人災だという意識が強く、「いつ帰してくれるか、被害はどのように補償してくれるのか」に関心が高い。避難させられていることを不当と感じているから、避難先での処遇にも不満が多い。「ボランティアだというと、『何でボランティアだ』と言われることがある。もっといい待遇をせよという気持ちだと思います」という報告である。
もちろんいろいろな方がおられるから一律に決めつけてはいけないが、そういう汚染避難者たちの気持ちはよくわかる。原発は絶対安全だと保証され、それを信じて生活設計をしてきたのだから、政府と東電に対して憤りや恨みがつのり、「被害を補償せよ、今まで通りの生活レベルで処遇せよ」という気持ちになるのは、当然である。それは、ボランティアが善意で救援できるレベルではないのである。
いずれ、被害補償の問題は、法律関係をにらみながら、解決されなければならないであろう。その時には、東電や政府の法的責任が解明されることになる。この度の大地震や津波を想定しなかったのは予見義務違反か、予見していたとしても、稀なリスクを侵すことは、電気の需要に応えるための「許された危険」として肯定されるのか、また、結果回避義務としては、冷却装置の防衛策はあれで足りたのか、海水注入や冷却装置を起動させるための諸行動が、あれで最善だったのかなど、正確に判断するには、詳しい検証を待つこととなる。
それは、緊急事態を脱したあとの作業であるが、今、判断しなければならないのは、現に増えつつある汚染避難者をどのように処遇するかの基本方針である。
これまでの対応を見ていると、汚染避難者たちと大地震避難者たちへの対応がおおむね同じやり方で(つまり、無秩序に)行われているようであるが、これでは摩擦が多くなっていくのではないか。
大地震の被災者には、避難所の提供と生命維持のための救援をボランティアの力も最大限に借りて行い、少しでも早く仮設住宅への移住、そしてコミュニティの復興へと歩を進めなければならない。
一方汚染避難者に対しては、汚染の防止と危険の状況の速やかな伝達、そして汚染からの回復と、それができない場合には、新しい生活基盤の提供が必要である。その道筋が開くのを待つ間、地域の連携保持のためになるべく共同して暮らせるよう、暮らしの保証も行われなければならない。詳細な事実関係の判断を待つまでもなく、今回の原発事故が人災であることは、全体として否定できないからである。その前提で基本方針を決める必要がある。 |
(電気新聞「ウェーブ」2011年3月31日掲載)
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