労働とボランティアの区別
現在の労働法制が確立した戦後から高度経済成長を遂げ終える70年代までは、日本では、労働とボランティアは峻別されていた。
労働者というのは、労働基準法に定めるとおり「事業に使用される者で、賃金を支払われる者」であり、ボランティアは、「使用されることなく自発的に活動する者で、賃金を支払われない者」であった。
使用される者の立場は弱く、搾取されるおそれがあるので、これを守るため、労働基準法などの労働者保護法令がつくられ、また、団結権や団体交渉権が認められた。一方、ボランティアは、自発的に活動しているだけだから、趣味や家事などと同じく、法律は関与しなかった。
実態としても、ボランティア活動は、そのころは、細々としか行われていなかったし、完全に無償であったから、労働者とボランティアは明確に区別でき、混同されることはなかった。
ボランティア活動の多様化
70年代以降、日本が安定成長期に入り、一億総中流といわれて、経済レベルで世界の先進国の仲間入りをしてからは、ボランティア活動の芽があちこちの分野で出始め、多様になってきた。
モノやサービスが足りず、衣食住などの生存の基本的条件を整えるのに必死であった時代には、求める余裕がなかったものに、心が向くようになった。たとえば、美しい環境や街づくりが求められるようになったし、福祉や国際の分野では、不幸な人に手を差しのべたいと思う人が出てきた。政府の調査で、物の豊かさを求める人よりも、心の豊かさを求める人の方が多くなったのは、この時期である。
しかし、精神的要素の強いニーズは、行政はこれを満たすことが不得手である。だから、心の豊かさを求める新しいニーズを満たすべく、ボランティアたちがいろいろな分野で動き始めたのである。
それにつれ、ボランティア活動の形や動機にも、新しいものが出始めた。
かつてのボランティア活動は、恵まれた者が恵まれない者を救済するというタテ型の慈善が主流であったが、70年代以降は、困った時はお互いさまという相互扶助あるいは共助の精神で行うヨコ型が伸びている。特に、福祉の分野で顕著である。
有償ボランティアの誕生
そのような流れの中で、いわゆる有償ボランティアが生まれた。
70年代後半である。東京、神戸、高松などで、ほぼ同じころ、自然発生的に誕生したようである。その経緯を典型的事例でいえば、当初は、困窮している高齢者を、近隣の主婦仲間が見捨てておけず、家事の援助などを行うようになった。しかし、援助される側は、全くの無償で継続的に援助されることに引け目を感じ、いくばくかの謝礼を払うことを望むようになった。そこで、1時間あたり数百円の謝礼を受け取ることをシステム化し、援助活動を組織的に行うようになった。
私も、有償ボランティアを広げる過程に参加しているが、たしかに有償ボランティアは、活動を普及させるのに有効であった。援助される側が、プライドを傷つけられたり引け目を感じたりすることなく、援助を受けられるようになったことが大きかった。そして、設定した金額が、時間当たり1,200円などと高額である団体には、就職希望の専業主婦が集まったし、時間当たり600円程度の団体には、お金を得るというより、自分の時間を人のために生かしたいと願う専業主婦が集まった。その中には、お金を受け取ることにどうしても抵抗感をぬぐえない人も多くいて、その人たちのために、私が「ふれあい切符」と名付けた時間預託制(提供した時間を団体に預託しておき、自分が援助を受けたい時はこれを引き出して、団体に属する仲間からこれを受ける制度)が採用された。
有償ボランティアは労働か
90年代半ばころまで、有償ボランティアは労働かボランティアかという問題につき、巷間やかましく議論が交わされたが、私は、純粋無償論者の観念的攻撃に対し、ある女性が「私は、お金が目的なら、この倍くらい稼げるところで働きます。困っている方々を放っておけないから、この活動をしているのです」と涙を浮かべて主張したシーンが忘れられない。
一方、家政婦業界がいくつかの地域の労働基準監督官に訴えて、そこからのアプローチもあった。
私は、95年、労働省の雇用政策課と協議し、同課は、家政婦の賃金相場の5分の4程度以下の金額であるものは、有料職業紹介事業には当たらないという見解を固めた。
厚生省も、同年、有償ボランティアという形のボランティア活動を推奨する告示を出している。
私は、完全を期して、有償ボランティアの謝礼金を最低賃金以下とするよう指導してきており、現在おおかたの団体は、最低賃金以下としている。
ところが、国税当局は、01年、有償ボランティアを展開している団体の収益金に法人税を課してきたので、私が代理人となって争ったが、04年11月17日、東京高裁で敗訴となった。いわゆる流山裁判である。ただ、一部に誤解があるが、この判決は、有償ボランティア(流山裁判のケースでは、1時間当たりボランティアは600円、団体は200円受け取る)が労働者であると認めたわけではなく、その点は明白に、ボランティアだと認定しており、厚生労働省の労働基準監督課も、同じ認識を持っている。敗れたのは、団体の事業が法人税法令上の「請負業」に当たるか否かについてであって、裁判所はこれを積極に解したのである。
スタイペンドの認知
日本では、労働の世界で、やっと「賃金」ではない「謝礼金」が半分ほど認知された段階であるが(ただし、おおかたの労働法学者は、労働を守ることにとらわれて、これを認めるに至っていない)、アメリカでは、早くから法制上確立されている。あるボランティア活動に対して支払われる金員は、これを労働者に支払われる賃金(Salary、Wage)と区別して、スタイペンド(Stipend)と呼ばれる。原義は兵士への恩給の由であるが、牧師に対する支給金、ボランティアや研修生に対する支給金などはスタイペンドである。
これを明確に法で定めているのが国内ボランティアサービス法(42U.S.C.§4950〜5084)であって、各種のボランティア活動につき、活動の種別とボランティアの区別(高齢者、学生、低所得者など)に応じて、スタイペンドの額を決めている。その額は、概ね最低賃金以下、貧困線(Poverty Line)を超えるあたりに設定されている。
日本とアメリカの労働とで労働の定義に基本的差異はないと認められるから、日本でも、実態を素直に見れば、スタイペンドは賃金ではないという認識に達するはずである。なぜなら、賃金は労働の市場価値を評価し、これと交換する金銭的価値として(つまり、労働に報い、これを償う報償または対償として)支払われるものであるのに対し、スタイペンドは、労働を無償で提供した行為に対し、感謝の意を表すための金品として、渡されるものだからである。労働基準法は、脱法的行為を防ぐため、賃金を幅広く定義しているが、それはあくまでその金品が労働の対償の全部又は一部として支払われることを前提とするものであり、労働との対償性(その市場価値を評価して、労働の全部又は一部と交換する趣旨で渡すという性質)を持たないものは、いかに労働の提供に対応して支払われようとも、賃金とはいわない。
最近日本でも、ボランティア活動に対し謝礼金を支払う例が増えている。退職した高齢者など自由な時間と能力と意欲を有する人たちが、社会に貢献するとともに、ちょっとした小遣いを稼ぐという生き方は、本人にとっても社会にとってもプラスが大きい。私の友人のアメリカ人法律家たちも、仕事から引いて、自分の生活と気持ちに合ったボランティアをしてスタイペンドをもらい、「酒代と孫への土産ぐらいの稼ぎにはなるよ」と幸せそうである。
正しくスタイペンドを認め、法の規制から解放し、その発展を図りながら、そのうえで、営利目的の事業者による脱法を抑止する方法(たとえば、ボランティア活動として行うことの合意書作成及び開示の義務、並びに苦情処理の仕組みなど)を考慮すべきであろう。
労働の多様化
ボランティア活動も多様化したが、他方で「労働」の方も多様化している。
「労働」の要素は、冒頭にみたとおり、賃金が支払われることのほかに、事業者に使用されることがあるが、その内容が実態として多様化しているのである。
労働基準法の立法当時から高度経済成長を遂げるまでの間は、事業の組織はピラミッド型と決まっており、ピラミッド型を前提として「使用される」といえば、「指揮命令」を受ける「使用従属関係」にあると解されるのは当然であった。判例も、この解釈のラインで集積されてきている。
しかしながら、これまでに述べてきているとおり、企業だからといって、ピラミッド型の組織にすべき必然性はない。ピラミッド型組織は、企業が軍隊の組織を真似ただけであって、経済発展に伴う顧客ニーズの多様化や従業員の個性重視のニーズが高まると、ピラミッド型は必ずしも目的に適合した組織ではないという事業部門が増えてくる。
そうなると、使用の仕方も変わってくるのであって、現に研究部門においては、勤務時間も定めず事業所への出勤義務もなく、仕事(研究)の主題も本人任せという、指揮命令も勤務上の制約もない働き方をさせている企業も出現している(それでも半分以上が出勤してくるという笑い話が付いているが)。そこまで極端でなくても、指揮命令、使用従属の相当部分をはずし、裁量労働制にするところは、もう珍しいとはいえない。隆盛を誇っている派遣労働も、使用者と労働者との間には、労働についての具体的指揮命令はない。
このように、使用のあり方が多様になる一方で、ボランティア活動の方は、「指揮命令」がある活動の仕方が増えている。
これは、ボランティアがNPO事業の重要な担い手として活用されることから生じる必然的現象といってよく、そこでは賃金は支払われないものの、実態として「使用従属」関係に立ってボランティア活動が行われている。
特に、海外に出かけて組織的に行う国際ボランティアや災害救助ボランティア、防災ボランティアや大規模な環境ボランティアなどは、事業の性質上、指揮命令が不可欠の要素となる。
このように、使用という要素の面でも、労働とボランティアは近接し、もはや従来の拘束性というメルクマールでは両者は区別できなくなっている。
今、緊急に必要なこと
人々の働き方やボランティア活動も多様になり、組織やその運営の仕方も多様になってきている。
にもかかわらず、労働法制もその解釈も、労働者を保護するという目的だけに固執し、法の対象となるはずのないボランティア活動にも法を適用して、これを萎縮させ、抑圧している。特に労働法学者にこの傾向が強い。
時代に応じて進展する事態を直視し、実態に適応した法の解釈を行うとともに、必要な法改正を提言して、市民のエネルギーを正しく生かさなければならない。
そのためには、労働とボランティアの区別を、使用従属関係というメルクマールでなく、労力提供の対償(賃金)が支払われるか否かというメルクマールによって行うこととし、賃金を支払う関係については従来の保護法制をしっかり適用し(サービス残業などを黙認してはいけない)、スタイペンドを支払うボランティアについては規制から解放して自由闊達にこれを行わせ、ただ、脱法を図る営利目的の事業者は厳格に取り締まる法体制を整えることが緊急に必要となる。ここでも構造改革が待ったなしの状況なのである。
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