4月26日に小沢一郎氏の政治資金規正法違反事件に対する判決が言い渡される。
無罪と予想する人が少なくない。従来の裁判所の事実認定の傾向からすれば、そういうことであろう。しかし、検察審査会が2度にわたり起訴相当の議決をしたように、素朴な市民の感覚からすれば、小沢氏が4億円の資金の報告について、全く関知していないという話は、どうにも納得できないものがある。後で作られた「確認書」をふりかざして小沢氏が嘘をついたことは世間に知られており、秘書らの話も転々としている。嘘をつけば罪を免れられるのかという素直な疑問も根強く残る。
結論がどちらであれ、この裁判では「どこまで推認できるか」が問題になる。
小沢氏が報告に関与したであろうと疑える状況はいくつもあるが、一番基本の疑問は、土地購入費として個人の金4億円を提供しているのに、これを担保にして同額の銀行融資を受け、これで土地を買った形にしたことである。法廷で明らかにされた小沢氏の嘘の発言や秘書たちの工作も、小沢氏個人の金だという4億円の提供を隠す方向で行われている。
その動機について明確な解明がなされていないのがこの事件の捜査の最大の弱点であるが、明らかにされた客観的事実から、小沢氏が個人の金だという4億円をその提供時に公にしたくないという意思を有していたことは容易に推認されるであろう。
問題は、そのことから、その時期における土地購入を政治資金収支報告書に記載しないことについての共謀があったと推認できるかである。
厳格に証拠を要求する従来の精密司法の感覚からすれば、そこまでの推認は無理だと思うであろう。
一方、素朴な市民感覚からすれば、自分で土地購入を決め、4億円の金を提供し、そのうえ銀行からの融資の話も報告を受けているのに、これらの経緯を公にする報告書について「秘書任せで知りません」というのは信じられないということになる。
いずれの結論になろうとも「合理的に推認できる範囲はどこまでか」を裁判所は示さなければならないであろう。
ただ、この裁判は、その内容よりも、政治的な影響力が大きいことに特徴がある。
小沢氏やその支持グループは、無罪判決を得て政治的、社会的復権を図ろうとしている。
しかし、これはどう見てもおかしい。小沢氏が「何かの必要ができた時にさしあたって対応できるように、4億とか5億とかいう現金を事務所に蓄えていた」というように、多額の資金の扱いが危うい人物であることは明らかである。そのような背景のもと、秘書たちが事実に反する政治資金収支報告書を作成したことの政治責任は免れられない。もし本件事実関係が公にならず、陸山会が解散し、関係した秘書たちが去れば、小沢氏名義の本件土地はどうなったであろうか。
本件だけではない。一連の刑事事件の中で、西松建設からの3500万円の違法献金を秘書が受け取っていること、水谷建設の元幹部からも計1億円の裏金が石川秘書に渡ったという証言が出ていることなどが公になっている。いずれも公共工事がらみである。
そして、政治的、社会的、倫理的に大問題となっているこれらの事情について、小沢氏は、説明責任を果たしていない。国会での説明を求められると「検察が不起訴にしている」と、検察を楯にして逃げている。
司法で有罪とされなければ、明白な倫理違反についても政治責任を免れるという不合理が、政界でなぜ認められるのか。政治全体の腐敗につながりかねない、危険な対応である。
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