更新日:2009年6月10日 |
私の好きな一句
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愁ひつつ岡に登れば花いばら
この句が私を俳句好きにした。中学時代、初恋の真っ最中であった。中学生がこの句を詠んで中学生新聞の俳句欄に投稿したとすれば、選者は「幼すぎる」として採用しなかったのではなかろうか。それほどに、初々しい。その初々しさが私の気持ちをとらえたのである。
読んだのは、萩原朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」であった。俳句は嫌いだが、蕪村だけは別だという主張もぴったり来た。国語の教師から「<古池や蛙飛(かはづとび)こむ水のおと>という句は、小さな音で大きな静寂を詠んだところが素晴らしい」と教えられ、「理屈はわかったが、大きな静寂を詠むことにどんな意味があるのだろう」と、子ども心に落ちないものがあった。だから、その句が俳句の最高傑作といわれると、俳句ってそれだけのものかという気がしていたのである。
私の関心は、自然には向かわず、人間に集中していた。とりわけ、初恋のとまどいの中で、「愁い」をもてあましていた。だから、この句にはまったのであろう。
句の主語は、「私」である。その私は、少女かも知れないし、それが誰であってもかまわないのだが、いずれにしても、「私」が主人公に登場する俳句は、生々しく人間くさい。
この句でめざめて以後今日まで、その流れの句を好んで読んでいる。
中学生や高校生が詠む句には、「私」の感覚がストレートにあらわれていてほほえましいのだが、名を成した俳人の句にも、時折「私」が主語になっている句がある。
もっぱら「私」なのは鈴木真砂女(まさじょ)で、
人のそしり知っての春の愁いかな
男憎しされども恋し柳散る
と強烈であるが、老いてなお「かのことは夢まぼろしか秋の蟻」と、「私」の思いに徹した句を詠みつづけた。
真砂女を慕ったのが谷口桂子(たにぐちけいこ)である。その第一句集「妬心(としん)」の冒頭の句は、
春の雨どちらともなく時計はづす
である。「はづす」のは、私と男。世を忍んでかなりの逢瀬を重ねてきた二人であろう。このような情景は、散文や短歌では描けないし、画像でも音楽でもあらわせない。一句に短編小説ひとつ分が凝縮している。小説を読んだり映画を見たりする時間が得られないときに、心をうるおすには、こういう俳句は得難い。
「ハンカチの折り目に妬心走り梅雨」「抱かれてもかのひと恋ふや夜の菊」「炎昼の喪服に包む妬心かな」。フィクションだと思っても、なおおそろしい「私の物語」である。
私自身は、年に一句、年賀状に記す句を詠むだけであるが、今年の句は、「春愁を天地(あめつち)深く放ちけり」であった。この閉塞感を、宇宙に思いをはせて消し去りたいと願ったが、簡単ではない。提言を重ねたが遠吠えに終わり、「憤死せよはぐれ狼汝(な)が運命(さだめ)」と、かなり自虐的になっている。
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(小学館発行「週刊日本の歳時記」通巻50掲載 2009年4月7日発行) |
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